パリからマドリッドまでのフライトはかなり揺れた。少し緊張気味の私 は、出発の前日と、成田から十数時間かかるパリまでのフライトの間、ほとんど寝ておらず、断続的に押し寄せる縦揺れ横揺れに、かなり気分が悪くなった。幸 い隣にいる本山氏との会話のおかげでいくらか気持ちが楽になり、飛行機も自分も何とか無事に到着した。
今回本山氏のスペイン出張に同行させてもらい、ロマニリョスの製作講習会以来の、スペイン再訪が実現した。前回は、ロマニリョスのスペイン伝統工法によ る製作を目の当たりにし、彼の指導のもとで製作したギターをもとに、写してきた型で冶具作りをはじめ、今までの工法を一からすべてやり直した。そして、同 じロマニリョス講習会で出会った尾野薫氏から、ロマニリョスという楽器の数値的に割り切れない部分について、適切なアドバイスを受けながら、試行錯誤を繰 り返した。尾野氏はすでにスペインの伝統工法による製作を長年に渡り実践し、最高峰のギターを生み出している。そして、あっという間に三年が過ぎた。最 近、自分が製作する作品に少しづつ手応えを感じ始め、今後の自分のスタイルというものを確立するために、もう一度原点であるスペインに行かなければと思っ ていた。その矢先に本山氏から同行の話を頂いたので、誘いを受けたときは天にも昇る気持ちだった。こうして、スペインギターの伝統工法を受け継ぐ一人とし て、スペインギターの時代を築いたマエストロ達と触れ合える絶好の機会を得ることができたのである。
飛行機を降り、スペインの地を踏みしめる。荷物を受け取り、タクシーでいざマドリッドの中心街へ。かつて見た街並みが再び目に入る。ホテルへ着く寸前に 本山氏が何気なく「ああ、この奥がサントス・エルナンデスの工房。」それを聞いて、私の胸は高鳴った。日常には無いこの緊張感がたまらない。
いよいよだ。いよいよはじまる。
ペドロ・バルブエナ工房
マドリッド東外れの大通りから一つ入った裏通りを少し歩くと、ペドロ・バルブエナの工房の前に出る。少し立て付けの悪そうな扉が開かれると、バルブエナが目をギョロッとさせながら顔を出した。入り口近くに作業台が置かれ、作りかけのギターがすぐ目に飛び込んできた。彼はヒールの部分にバインディング(縁巻き飾り)を巻いている所だった。
挨拶した後に本山氏といろいろな話が飛び交う。壁に掛けられたテンプレート(型)や冶具類、桟積みされた材料や仕込んであるネックや表、裏板で工房がいっぱいで、十二畳くらいのスペースが狭苦しく感じられる。
今作りかけのギターはアウラに納品されるもので、厳選された材料を使用していた。裏横の木目はとても美しく、写真を撮らせてもらう。ギターを手に取って軽くポンポンとたたくと「それじゃわからないだろう。」とサウンドホールに詰めてある埃よけのスポンジを抜いてくれた。駒のついていないそのギターからは、彼らしい甘く力強い音が抜けてきた。出来上がりがとても楽しみである。高音部に力木を斜めに入れているとのこと。そして、製作のこだわりや材料についてなど熱く語ってくれた。彼は修理にも精通し、貴重な技術も教えてくれた。
工房中に漂う木の芳香。木は削ることでなお匂いを発する。彼は長年の製作で木を削ることにより、とりわけ杉の木屑で体を悪くしているらしいが、体に気をつけて、いつまでも元気でギターを作って欲しい。二つある作業台の一つは息子のものだろうか。彼のこの技術も息子に伝えられることを願うばかりである。
最後に彼がすぐ隣のバルでコーヒーを振舞ってくれた。泡だったカプチーノがいつにも増して美味かった。そして抱擁と握手を交わし、彼の手のゴツゴツとした厚みを感じながら工房を後にした。
サントス・バジョン工房編
マドリッドの中心部から少し入った裏通りに彼の工房(兼店舗)がある。サントス・バジョンの工房は、もともとはサントス・エルナンデスの工房であり、血こそつながっていないが、エルナンデスの後継者であった父から譲り受け、工房と伝統を守っている。
店の脇の壁には、「サントス・エルナンデスの工房」と鋳造された、重々しい青銅版が埋め込まれていた。ショーウィンドウにはシンプリシオの製作で有名な、サウンドホールを指板両端に二つに分けたモデルのギターが吊るされている。中にはバジョンがいたが、ドアに鍵がかかっていたので、本山氏がノックして手を振ると、ニコニコしながらゆっさゆっさと歩み寄り、ドアを開けてくれた。本山氏が握手と抱擁をした後、私も握手をする。そして店の中を見渡すとサントス・エルナンデスの頃からの歴史が広がっていた。
壁一面の大きな額に、セピア色になってしまったたくさんの写真が、まとめて納められていた。タレガやセゴビアをはじめたくさんのギタリストがこちらを向いている。そしてカウンターの後ろに飾られた大きな油絵の中では、サントス・エルナンデスがギターを作っている。店の中から見ている構図で、柱も壁も作業台も、まぎれもなく私が現在見ているものと同じである。サントスがギターを作っていたであろうことを考えながら、絵よりもずっと古びてしまい真っ黒に光っているその作業台にそっと手を触れた。鋸目やノミの跡が数知れずついた作業台のごつごつした感触と100年近いその歴史に、背筋がゾクッとした。
ふと我に返り、本山氏とバジョンの会話に耳を傾けると、彼はいろいろ忙しいらしく、あまり製作できていないらしい。店の中にある3本のギターは、2本がサウンドホールセパレートタイプで、もう1本はトルナボス(共鳴筒)入りであった。彼も工房と伝統を引き継ぎながら必死で製作に取り組んでいる。残念ながら仕事場は見られなかったが、写真の中にあったサントスの時代の仕事場となんら変わりはないであろう。サントスの作業台に触れただけでも十分である。彼の店を見たことで、ギターの歴史と伝統の重さを直に肌で感じられた。移り行くこの時代の中で、伝統を守り技術を継承していくことは並大抵のことではない。彼や他の製作家のように、伝えられた「いいもの」を知り、それを信じて守っていくことを願う。そして自分もスパニッシュギターの流れを引き継ぎ、微力ながらその伝統を守る担い手になりたいと思う。
マルセリーノ・ロペス工房編
マドリッド北部の閑静な住宅街を歩いて行くと、彼の工房兼自宅がある。マドリッドの製作家にしては珍しく、一戸建ての家の中に工房がある。呼び出しを押すと、息子のルベンが鍵をじゃらじゃら鳴らしながら出てきた。本山氏が握手をして抱擁した後、僕を紹介しようとすると、「カオル(尾野薫)のアミーゴだろう」と言って歓迎してくれた。
工房へ入る前に材料倉庫を見せてくれた。ロペスはクラシックギターのほかにも古楽器にも精通していてリュートやガンバ、19世紀ギター、そしてヴァイオリンも手がける本物のリューティエである。そのためギター材のほかにもサイズの大きいいろいろな材料が倉庫の中でひしめき合っている。そのまま家の中に入り、ロペスが作ったものもあるらしい素敵な家具調度品の間を抜けていく。階段の壁には彼が描いた油絵もたくさん掛けられていた。いよいよ彼のアトリエへ。ここは工房と言うよりもアトリエのほうが似つかわしい。
アトリエに入りニコニコしたロペスと挨拶をする。彼もまた優しい目をしていた。そして辺りを見渡してびっくりした。近代的なものは何もない。壁には異なる 時代のいろいろな楽器や、製作の途中の楽器や治具、そして道具類、どれ一つとっても愛らしく飾られている。まるで中世の宮廷製作家の部屋へタイムスリップ したようである。日射しの入る天窓には、いろいろな楽器の表板が大小”接ぎ”した状態で吊られて、茶褐色に焼けている。それらは、製作に入るために彼の手 に取られるのを、今か今かと待ちわびているかのようである。
またアウラに納品予定のギターを見せてもらう。裏横は特徴的な木目の楓の材料で、軽く鳴らすとロペスらしい甘く高貴な品のある音が飛び出してきた。少し弾いていると、ギターの音と彼の工房の空間とがシンクロして宮廷演奏家になった気分である。そのあと彼自身が演奏してくれて、しばしギターの音に酔いしれた。
彼の製作によるヴィオラ・ダ・ガンバも見せてくれた。28年前から取り掛かっていて、太鼓はできているが、ネックのヘッドの彫刻にもうしばらく時間がかかるであろう。(ガンバはスクロールのものあるが、ほとんどは妖精や神様の顔を形取ったものが多い。) ルベンが「20年もそんなもの作って、1000年生きるつもりか?」と笑って言うと、彼はぜんぜん構わない様子で、「20年じゃないよ、28年だよ。」と言っていた。本当にニコニコ楽しんで楽器製作を楽しんでいる。とにかく楽器製作を点ではなく線でとらえているというか、自分の人生と同時進行のようである。数ある楽器や道具の作り出す空間に、なんだか彼が溶け込んでいるように感じられる。息子のルベンの楽器もしっかりと彼の音色を引き継ぎながら、完成されてきている。孫もたくさんいるようなので、彼の豊かな感性と楽器への思いは受け継がれるであろう。今後もとても楽しみである。
別れを告げ、外に出ようとすると雨が降っていたので、彼が傘を貸してくれた。季節の変わり目の冷たい雨の中を彼から借りた傘で歩いていると、自分のこれからの楽器製作も、現実という雨から、彼の楽器製作にかける思いで守られていくような気がした。
マヌエル・カセレス工房編
マドリッドのへそと呼ばれるソル広場から程近い裏通りに彼の工房(兼お店)がある。滞在しているホテルからは彼の工房が一番近いのもあり、本山氏とともになにかとお邪魔させてもらった。今日も早朝から訪ねたら、鉄格子は閉めていたが中で悠々と仕事をしている。我々に気付くとにこやかに歩み寄りガシャガシャと開けてくれた。
今日のマドリッドは小雨が降っている。昨日までのアンダルシアの夏のような陽気が嘘のように寒く、長袖の上にも上掛けを羽織った。いつものように挨拶と抱擁を交わし談笑する。お店は開店休業状態で、埃の被り方からしても商売っ気は全くなく、製作に没頭しているようである。北向きの暗い部屋を見上げると、高い天井には表板や裏板が沢山仕込まれて、ギターにされるのを順番に待っている。そして今日は何を作業しているのかと思えば(こんなに表板が仕込まれているのにさらに)昨夜接着したであろう表板の接ぎの紐掛けを外していた。現在接ぎに使う締め具は、ハタ金など便利なものもあるが、「やはりこれが一番」とばかりにくるくると紐を手に絡げてまとめている。とにかく忠実に伝統工法に乗っ取って製作しているのである。
便利な表板の型を見せてもらった。これにより木取りし易いというもので、「ロマニリョスは教えてくれなかっただろう。」とニコニコ言っていたが、表板の選 別に関しては、ロマニリョスとは好みが違うようであった。指板を張った状態で寝かしてある彼の次の新作を見る。先の型で決めたであろう素晴らしい材料をを 使用している。ポンポンと親指の腹でタップすると柔らかく甘い音が敏感に出てきた。仕上がりがとても楽しみである。
午後に再び会うとあいかわらずニコニコしていて、寡黙に製作していた。そして仕事のあとバルでワインをご馳走してくれたり、マドリッドを発つ前に寄ったときは、自分の昔の新聞記事をコピーしたのをカセレスオリジナル封筒に入れてプレゼントしてくれ、サインもねだったら、激励の言葉を添えて渡してくれた。いろいろ優しく接してくれて感謝の思いでいっぱいになりながら、再会を約束して工房を後にした。
アルカンヘル・フェルナンデス工房編
シャッターが閉められたままの店舗部分の脇から入り、裏口をコンコンとノックすると、いつものように鍵を開けてアルカンヘルが中に入れてくれた。マドリッドに来てから何回目か、いつ訪ねても整然とされた工房の中でアルカンヘルは製作に励んでいた。
今回のスペイン訪問で一番楽しみにしていたのが、アルカンヘルと会えることだった。うわさに聞く彼の製作姿勢や寡少な製作本数、そして何本か見た彼の楽器から、一目会って握手をしてほしいと思っていた。ロマニリョスの講習の時もそうだったが、製作作業を見たり、聞いたりできることは技術的に何よりであるが、それ以上に自分が良いと思える楽器や製作者自身に出会えるような感覚的なことが、自分にとってとても重要だからだ。良い楽器を見ると嬉しくなる。製作家の試行錯誤を想像する。心を動かした楽器があったなら、それを作り出した製作家にも会ってみたい。刺激を受け、目標が出来ると毎日の製作が楽しくなるので、極端であるが製作そのものをもっと好きになってしまう。後は「好きこそものの上手なれ」でいくらでも努力できるのだ。
本山氏が挨拶すると作業の手を止め抱擁した後、いつものようにギターについていろいろとまくしたてる。その様子はまさに江戸っ子ならぬマドリっ子で、頑固一徹の職人そのものだ。彼の後ろには鑿や鋸などいろいろな手道具が壁にかけてあり、その上にフラメンコギタリスト時代の彼の写真が飾られている。天井近くに材料とともに型など治具も見え、足元には表や裏の厚みを決める作業台も置かれている。そのほかギター製作に必要な道具類は幾つか見えるが、とにかく必要以上のものは本当に何もないといった印象である。製作で現在進行中のものは1台で、芸術品のようにきれいに仕上げられ、駒(ブリッジ)が接着されるのを待っている。(裏横の材料は考えられないような最高級のものを使用していた)あとは表板や裏板なども数枚接ぎされ、厚みを決められて吊るされている。
彼にアドヴァイスや製作の心構えを求めたが、「お前の作りたいギターを、俺が知るわけないだろう!」と一喝され、全くその通りと笑ってしまった。それでも表板の重要さ、裏横板のバランスについて語ってくれた。そして「材料はあるのか?」と聞かれ、「多少持っているが良いものばかりでもないので今買い足しているところだ。」と答えると、店舗部分に連れて行かれ、奥の棚の布をめくると、表板の材料があった。「ここにあるのは全て古い材料だ。欲しければ譲ってやる。」すべての表板に仕入れた年と月が記されている。その多くが80年代からである。そして皆使えそうなのだ。タップすると新しい材料にはない、粘りを含んだ枯れた音がする。僕はアルカンヘルに感謝して、尾野氏の分とで4セット譲ってもらった。それを見てアルカンヘルはついでにとばかりに、目の覚めるような真っ黒な柾目の黒檀を4枚、自分が使うために用意してある棚から出してくれた。そして譲ってもらった表板に、アルカンヘルのサインとメッセージを書いてもらった。
その後、お気に入りの日本食レストランで一緒に夕食を食べたり、バルでワインを飲んだりとアルカンヘルとの楽しい時間が過ごせた。別れ際にした彼とした握手の、特に職人らしいごつい手指の感触は一生忘れない。そして去っていく彼の背中を見ながら、僕もアルカンヘルのような妥協のない製作姿勢で生きていこうと誓った。
アンダルシア探房記
スペインを代表する製作家とのふれあいの中で、喜びと感動がかわるがわる押し寄せてくる夢のような毎日をマドリッドで過ごした。興奮さめやらぬままマドリッドを一時離れ、アントニオ・マリンをはじめとするグラナダの製作家たちとコルドバのマヌエル・レジェスに会いにいざアンダルシアへ。グラナダもコルドバも前回ロマニリョスの講習の際に訪れているので、4年前の記憶が甦り感激もひとしおである。特にアントニオ・マリンはグラナダに行った際に一度工房を訪ねている。尾野氏から預かっているマリンへのお土産を携えて、飛行機でグラナダに向かう。少し不安になってしまいそうな小型の飛行機で1時間ほどのフライトを楽しんだ。グラナダへ近づくと雲も晴れてきて、雲の切れ目から白い壁とオレンジの屋根、そしてオリーブ畑が見える。こういった風景が見えるアンダルシア地方は、華やかな都会であるマドリッドよりも、はるかにスペインらしく感じられる。そんな風景を見ながら、尾野氏から聞くマリンの話、自分が対面した時の記憶を思い出した。そして、これからはじまるアンダルシアの製作家たちとの出会いを想像し、だんだん緊張してきたが、瞼に焼き付いているマリンの優しい眼差しが幾分緊張を和らげてくれた。
無事着陸してグラナダに降り立つ。乾いた大地と白っぽくも深い緑の糸杉(シープレス)が、改めて今、自分がスペインにいることを教えてくれた。グラナダ市内を往復するシャトルバスの、時刻表も看板もない停車場を確認して、お土産を買いながらしばらく待つ。余程待たされるかと思ったが案外早くバスは現れた。運転手に言われるままバスに乗り込み、肘掛けの使い方もわからないまま、グラナダ市内へ。スペインでも南に位置するグラナダは10月末だというのに陽射しが強く、バスはクーラーがかかっている。広場の脇でバスを降り、近くのホテルに宿を取る。荷物を降ろし、近くのバルで腹ごしらえをして、早速マリンの工房へ向かった。
アントニオ・マリン工房編
ドアが少しだけ開かれていて、その隙間からホセ・マリンとゴンサレス・ロペス(マリンの弟子)が真剣な表情で裏板接着後の紐を外していた。一瞬声を掛ける のをためらったが、接着しているわけでもないので挨拶すると、ニコニコと快く握手と抱擁で迎えてくれた。裏板を接着して太鼓にすると、ある程度その楽器の 出来上がりも見えてくるので、あの真剣な眼差しは痛いほどに良くわかる。マリンは出かけているが少ししたら戻るとのことで、本山氏といろいろな話が飛び 交った。
壁にはやはり道具や治具類が並び、左の奥には長年使い込んだ接着用の膠鍋がみえる。湿度計は45パーセントを指していて、製作にはもってこいの湿度であ る。正面にマリンの作業台、右側にホセ・マリン、そしてその後ろには、ギターが10本ほど吊るしてあった。裏板接着まで加工されたもの、指板まで接着され 寝かしてあるもの、塗装をして乾かしてあるもの、どうやら3つのサイクルで製作されたようである。表板はすべて松が使われ、裏横はきれいな木目の出ている ローズウッドとハカランダであった。塗装してあるものは極薄のセラック塗装にもかかわらず、マリンらしくとても綺麗に仕上げてある。近年、出来合いの飾り や合成塗料などの使用が増える中、マリンをはじめとするマエストロはすべて手作りで、ギターを型の上でこつこつ組み立てていき、セラックをテルテル坊主の タンポに浸して、しゅるしゅる塗りあげていく。マリンの工房にいると、伝承された技術を守りながらも、さらなる発展のために創意工夫を凝らし、地道に時間 をかけて製作していくことこそがギター製作の秘訣なのだと改めて感じさせてくれる。
しばらくしてマリンが戻ってきた。戻るなり本山氏と熱い抱擁を交わし、再会を喜び合う。僕とも痛い位抱擁してくれた。続けて(毎回そうであるらしいが)、 ブーシェとの出会いを実現してくれた日本人をはじめ、ゆかりのある人のことを尋ねる。そしてギターを手に取り彼のこだわりも熱く語ってくれた。最高の材料 を選りすぐり、使用するギタリストのことを考え、感謝の気持ちをこめてゆったりと製作するそうである。
とにかくマリンは温かくて優しくて、胸がいっぱいになってしまった。これだけの人格を持つ人はそうはいないと思う。それは眩しい位に輝く彼の瞳にも 表れている。どうかいつまでも元気でギターを製作して欲しい。楽器同様体躯も貫禄のでてきたホセ・マリン、そしてゴンサレスも楽しみである。マリンのギ ターの技術と思いは、ここグラナダで永遠に継承されていくに違いない。
みんなのサインを松材にもらい、頭のてっぺんからつま先まで幸せになってマリン工房を後にした。
ベルンド・マルティン工房編
グラナダでも有名なアルバイシン地区へとタクシーを走らせた。元来がアラブ人の城塞都市として発展したこの地区は、小高い丘にあり、道が迷路のように入り組んでいる。すれ違う車や白い壁に擦られそうになりながら、急な坂道をぐいぐい登っていく。丘を登りきり着いた展望台から、アルハンブラ宮殿の眺望が目の前に美しく広がった。「こんなところに工房があったら最高だな。」というこの場所に、目指すベルンド・マルティンの工房がある。展望台から少し下って、石畳をてくてく歩いて行くと小さな広場があり、目の前の白い壁に素敵な淡いブルーで「ベルンド・マルティン」と書かれた白い小さな陶板がかけてあった。
ドアを開けると、奥でマルティンが力木か何かを切断していた。作業がしばらく続いたが、我々に気付くとニコニコして出てきた。早速握手と抱擁をしようとすると、木屑を被っているからとマルティンは断ったが、構わずがっちり抱擁をした。それにしても彼は背が高い。私も180センチあるが、彼を見上げるようである。優に190センチはあるであろう。写真で見る限り気難しそうな印象だったが、明朗、快活で彼もまた優しい子供のような眼をしている。工房はとても整理されており、彼が大きいせいか机も棚もすべて高い位置にある。中央にベッドのように作業台が置かれていて、棚には写真が飾られており、ギタリストやアントニオ・マリン、大きな丸太と一緒にマルティンが笑って写っていた。
一本完成品があり見せてもらった。表はドイツ松、裏はローズウッドである。サントスから研究して、ハウザーのイメージを加えて設計をして製作したものだそうだ。そのため重い低音を持ちながら、高音も硬くしまって音が抜けている。表、裏共に丸太から製材して、良質なところを厳選して使用しており、注目すべきはローズウッドのヘッドも駒(ブリッジ)も裏板も横板も同じ一本の丸太から製作されているとのことだ。製作のこだわりは各製作家であるだろうが、材料を丸太から厳選し、製材している製作家はマルティンぐらいかもしれない。全く頭が下がる思いである。
次のアウラの納品と注文を確認した後、もう夕方になっていたので、一緒にバルで一杯やろうということになった。夜も更けて満天の星空の下で、ギターの話をしながら、ライトアップされたアルハンブラ宮殿を眺める。脇でジプシーの二人組がフラメンコギターを、我々を含めたバルの客に披露している。軽快なギターの音色をBGMに聞きながら、まるで夢のような気持ちになった。しばらくマルティンと本山氏の3人と、至福の時間を過ごしたあと、マルティンから僕のギター製作に対して、激励の言葉を貰い、名残惜しくも別れを告げた。
今日の予定を終え、本山氏とゆっくりアルバイシンの丘を、アルハンブラ宮殿を眺めながら下りて行った。宮殿の方から吹いてくる風が夜になって少し肌に冷たく、とてもとても心地よかった。
アントニオ・ラジャ工房編
10月も末だというのに、日中はまだまだ日差しが強く暑い。照りつける太陽の中、アントニオ・ラジャの工房へ向かう。中央広場を抜けながら噴水の脇を通ると、風に舞う噴水のしぶきが頬をかすめて気持ちいい。しばらく歩いていくと、道の角にある白い壁の建物の一階に工房があった。けっこう人通りの多そうな道の角なので、通りを歩いている人がふと足を止めて入り口を覗くと、中でギターを製作しているのが見えるという、日本ではおおよそ考えられない状況である。
工房の中では、息子のフェレールがハカランダの裏板に軽石の粉を打ち付け、せっせとタンポを廻して目止めを行っていた。本山氏が挨拶をすると、ニコニコして手を止めて抱擁をし、父のパルドを呼びに行った。現れた父パルドとも挨拶と抱擁を交わす。パルドは喉の手術をしたようで、声が出にくそうだったが、とにかく元気で何よりだった。
本山氏が僕を紹介して、僕になにか助言して欲しい旨を伝えると、感慨深そうにしてから、なんと彼が20年前に作った、2作目のギターを見せてくれた。「まあこのころは何もわからず、見よう見まねで作ったよ。」と苦笑いしていたが、続けてまだ塗り途中の新作を手に取り、「20年でこんなにも良くなった。おまえはこれからだ。良いものを目指していけば必ず良いものができるようになる。」と激励してくれた。さらにハカランダの材料を二つ手に取り、どちらが良いギターを作れるかと僕に尋ねた。僕が色の濃い方ではないかというと、彼は「裏横は関係ない。大事なのは表だ。」とアドバイスをくれた。嬉しさのあまり僕がサインを求めると、快く承諾してくれた上に、「お前のこれからの将来のために、自分が良いと思う材料を進呈するからそれにサインをしてやろう。」といって表板の材料の束を手に取り、夏目、冬目の具合など、表板の選び方を教えてくれながら、とびきり良い材料にサインを書き始めた。僕はどうしていいかわからず、呆然としながら、材料を受け取り、そして彼に飛びついて抱擁をした。
さらに彼は、「日本じゃこういうのはないだろう。」と、真鍮の糸巻きのネジを一袋、どさっと僕の手に落とした。そして最初に渡した僕の名刺を彼の名刺入れにニコニコしながら入れて、僕の肩をたたいた。今日初めて会った日本人の製作家に、どうしてここまでしてくれるのかわからず、ただただ感謝してこみ上げてしまった。そんな父を見て、息子もニコニコしている。父をとても誇りに思っているのだということが父に向ける眼差しではっきりとわかった。僕は「腕が上がったら、この材料でギターを作ってくるから見てください。」と彼に約束すると、「息子も君もこれからだから、二人ともがんばりなさい。」改めて激励してくれた。
スペインに来てから何度も夢のような経験をしているが、彼の優しさに触れて、忘れられない最高の一日になってしまった。そんな人柄の彼の手によって作り出される楽器であるからこそ、すばらしい楽器が出来て、信じられないほどの優しさに満ち溢れた音が響くのだと思う。とても素敵なアントニオ・ラジャ親子と再会を約束した後、名残惜しくも別れを告げ、工房を後にした。
マヌエル・レジェス工房編
優しいグラナダの製作家たちの面影に後ろ髪を引かれながら、フラメンコギターで名高いマヌエル・レジェスに会いに長距離バスでコルドバへ向かう。整然と並んだオリーブの木々や、時たま見える白い壁にオレンジの屋根など、バスの中から見える絵画のような景色が、ゆっくりと流れて行く。どの景色ひとつとっても日本にはないので、飽きずにずっと眺めていた。季節によってはひまわりやけしの花なども咲き乱れるらしい。本山氏と、自身のスペインでの生活やエピソードの話で盛り上がりながら、町を二つほど通り抜けコルドバに着いた。
早速タクシーに乗り換え、マヌエル・レジェスの工房へ向かう。グラナダも暑かったがコルドバの方がなお暑い。町を行き交う人々の装いは10月も末だというのにまるで夏のようである。タクシーを降りて通りから石畳を歩いて行く。かつてのミドル・ロドリゲスの工房の脇を抜け、マヌエル・レジェスの工房に着いた。中ではマヌエル・レジェスに奥さん、そしてレジェス・イーホが挨拶と熱い抱擁で迎えてくれた。彼の工房はスペインらしい店舗兼工房になっていて、壁には歴代のギタリストの写真が連ねている。我々と入れ違いでギタリストらしい人がケースを持って出て行った。
本山氏はお土産を渡しながら、注文の確認と依頼をしている。寡作なので注文するのも大変である。いろいろ話をした後、イーホが工房の説明と案内をしてくれた。とても整理整頓された工房で、材料や仕込んだ部品があらゆる形で準備されている。年間数本の製作本数であるにもかかわらず、さらに今年は仕込みで終わってしまい、製作できなかったらしい。めったに手に入らないのも頷けた。(僕も「いやー、今年は仕込みで終わっちゃって、、。」なんて言えるゆとりを持ちたいと思った。もっとも仕込みだけではつまらないが。)ほとんど人には見せないという2階まで連れて行ってくれた。
レジェス自身からもいろいろなアドヴァイスやヒントを教わった。彼もまたやはり何十年と果てなき追求と試行錯誤を繰り返してきたのである。だからこそ出てくる彼の言葉の一つ一つがとても重い。激励の言葉とサインをもらって、感謝と感激の気持ちでしばらくぼぅーとしていた。
そうこうしているうちにレジェス家族から昼食の誘いを受けた。そもそも日曜日であるがこちらの都合に合わせて工房を空けて待ってくれていた上、そのつもりで奥さんも一緒だったらしい。連れて行ってくれたのは典型的なアンダルシア料理のお店で、ガスパッチョに生ハム、揚げた軟骨や香辛料の効いたモツのあんかけなど豚肉のオンパレードである。もちろんワインを飲みながら、とっても美味しく楽しい時間を過ごさせてもらった上、恐れ多くも僕までご馳走になってしまい、ただただ感謝でした。
レジェス家族に心の底まで優しくしてもらって、別れ際にはスペイン人並みに厚い抱擁を交わした。南部では親しい間では男同士でも頬にキスをするらしい。別れを告げ、イーホにタクシー乗り場まで送ってもらう間、酔いもありニコニコニコニコしながら歩いていた。タクシーで駅に到着し、しばらく待った後、AVE(新幹線)に乗り込んで、マドリーへ向かった。途中でA・ラジャにもらった表板をレジェスの工房に忘れたことを思い出し、慌てて、本山氏に連絡してもらった。後でアルカンヘルのところに送っておいてくれるとのこと。レジェスさん本当にお世話になりました。