3月16日(火)
午後9時半にマドリッドのバラハス空港に予定通り到着。EU圏内からのフライトはドメスティクの扱いなのでパスポートコントロールは無しですんなりと入国。出たとたんにルベン・ロペスが大きく手を挙げて、にこやかな顔で出迎えてくれました。車の中 で近況を尋ねると、なんでも兄の一人が深夜、一人で運転中に疲れから居眠りして信号 に激突して重症を負ったとのこと。その為に看病や仕事の代行を引き受けてかなり忙しい日々を過ごしいて、楽器製作が進まないとのこと。そんな話をしていると15分足らずでホテルに到着、再会の約束をしてチェックイン。T氏とT女史に到着を知らせてから、メールを送るためにパソコンの設定を始めましたが一苦労。ようやく繋がってのろのろとメール受信と送信を完了。これでは写真の送信 は心もとない感じです。
3月17日(水)
午前中はマヌエル・カセレス、サントス・バションの工房へ挨拶に。 午後アルカンヘル工房を訪問。相も変らぬ様子ですが、幸いなことに予定通りの仕上がりでアルカンヘルとマルセロが最終段階に入っていました。
3月18日(木)
遅くまでパソコンをいじっていたものの、昨日マリア・エステルに連絡して会いに行くと言ってしまった関係で、ちよっとウトウトとしてからタクシーを拾って空港へ。道が空いていて7時には到着。8時15分の出発なのでゆっくりチケットを購入してカフェテリアで朝食。ところがそれからが大変で天候不順で出発時間の変更。何時たつとの見通しのアナウンスも無く待つこと2時間半ののち搭乗案内。前回はグラナダへ行くはずがマラガに連れていかれてしまうし、旅というのは意に反することばかり。慌ててマリア・エステル に電話を掛けなおし、1時間ほどでセビーリャに到着、何のことは無い霧がかかっていたとはどうしても思えぬ快晴で、ここはどう見ても夏、外の温度計は30度。
時間がないのにコンセルバトリオの教授をしているセラフィン・アリアサの教室を突然訪問して挨拶。彼の息子の東京でのコンサートを企画した者と自己紹介すると、レッスンを中止するから一杯のみに行こうとさそわれました。辞退するとギター協会の機関 紙4冊をプレゼントしてくれました。
急いでタクシーを拾って、マリア・エステルと待ち合わせたカフェテリアに駆けつけると、既に彼女は先に着いて待っていました。毎回何か起こるのはイベリア航空のせいではなくて、その運を連れて来た貴方のせいだと言われてしまいました。秋のツアーに関する話で彼女と打ち合わせ、雑談をしていたらあっという間に2時を回ってしまい、ここでも慌てて別れました。彼女からはCDと最近の記事のコピーをプ レゼントされました。ちなみに彼女も最近パソコンに嵌っていて昨夜も遅くまでやっていたとの事。ホームページは http://www.mariaestherguzman.com/です。
兎に角、今日の本当の目的地のコルドバに着く前に時間はどんどん過ぎていきます。慌てて新幹線AVEの駅に駆けつけるが6時の列車も一杯で次は7時発。ようやく8時近くにレジェスの工房に到着してみると、彼は咳き込みながら仕事をしていて、かなり体調が悪そう。心配して聞くと奥様が高血圧で緊急入院して、付き添い用のベットも無い部屋で一晩中過ごして体調を崩したとのこと。息子のマヌエルは挨拶もそこそこに病院へ行くと言って出て行ってしまいました。どうやら顔だけでも見てからと待っていてくれたようで、申し訳なし。楽器はかなり進んでいて来月上旬には完成しそう。しかし次は恐らく早くて1年後になりそうです。いよいよ入手が困難になって来そうで、時代の移り変わりを感じたひとときでした。
3月19日(金)
今日はサン・ホセと祝日にあたって休み。ノルマをこなす為には、この祭日は痛い。地域的な休みなので、バルセロナは平常どおり。そちらに飛ぶことも考えたが一渡りとった連絡であまり面白い話は無さそう。グラナダの製作家やビス・ニエト・デ・トーレスやロペスに電話、明日のグラナダ行きのフライトをリサーブして街に出ました。ツナとトマトとチーズの熱いボカディージヨを頬張ると、これがうまい。エスプレッソとホットチョコレートのミックスという得体の知れない飲み物を流し込んで、祭日の夜の賑わいに満ちた街を歩くと、あちらこちらからストリートミュージシャンの演奏が 聞こえてきます。サックスの枯葉、7,8人のフォルクローレのグループのコンドルは飛んで行く、ギターのアストリアスと通俗名曲の類が何故か新鮮に聞こえ、小銭を投げ入れました。
3月20日(土)
2時間ほど寝て5時には目が覚めてタクシーを飛ばし、バラハス空港に着いたのが6時。出発までの1時間近くをノートパソコンを広げ空港の電源にちゃっかり繋いでレポート。3連休の中日のせいか、乗客は10人足らずでしかも8時半にはグラナダへ何の問題も無く到着して拍子抜け。すっかり予定通り行かなくて当たり前の感覚が身に付いてしまい、かえって何かの間違いではないかと思うほど。 早速ベルンド・マルティンの家に電話して、彼の工房へ向かう。工房のすぐ近く、アルバイシンのサン・ニコラス展望台でタクシーを降りると光に包まれたアルハンブラ宮殿とグラナダの市街が眼前に広がります。感傷に浸る間もなく、彼の工房へ。会うと即、先月上旬に行った3回目のチェコへの旅の話。氷点下15度の下で選んで切り出したスプルースの年輪を数えると丁度180数本で奇しくもトーレスがレオナを製作した年に植えた樹である事、しかも伐採した時に倒れる方向を決める為に予め切り落とした木場口(と言うのだろうか)の部分が偶然 ギターの形をしていた事、伐採した木を引き始めると雪との接点が共鳴してギターにとって大切なファからラあたりで低く歌い出した事など、楽しげに語ってくれました。過去の失敗と今回は違う事を自分に言い聞かせるこじつけに過ぎないような気がするのですが。。。憎めない男ではあります。デジカメを出して撮影。ついでにノートパソコンを出してアウラのホームページを見ようと言うことになり、回線に繋いでみましたが遅いこと。表紙がのろのろと立ち上がるまでに何分かかった事か。
(たしかに切り口がギターの形になっている…)
(引きずると、ファからラあたりで低く歌い出した…)
(誘われて同行したギタリスト。もうこりごりとか。)
ベルンド・マルティンとサン・ニコラス展望台のオープンテラスでオリーブオイルをかけたトーストとコーヒーの朝食。再会を期してタクシーでグラナダの市街のアントニオ・ラジャの工房に直行すると、彼はアウラの為に作った楽器で演奏していました。既に約束の彼のフラメンコとクラシック、息子のトーレスモデルも殆ど出来あがっています。クラシックでもフラメンコで も器用に演奏する彼は寡黙で、おしゃべりなマルティンとは好対照。彼はゴルペ板のかわりに透明フィルムを使っているので手に入れたいというと、さっと隣の文房具屋に行って一箱丸ごとプレゼントだというのです。デジカメを出して撮影すると欲しそうな様子。メカにも強そうでメール通信も近々始めるとのこと。楽器も良かったです。着実にグラナダの次世代の代表へと育っている感。帰りは4時半発の飛行機なので、残る時間は後僅か。慌ててアントニオ・マリンの工房へ向かうと何時もの様にホセ・マリンと一緒に黙々と仕事をしていた手を休めて、抱擁して迎えてくれました。それだけで彼の暖かい大きな人柄が伝わります。彼ほど人間的に大人で、欠点の少ない完成した人格を持った製作家は少ないと思います。会うなり聞いてくるのは、昔彼をブーシェに引き合わせた日本のT氏のことです。その恩人に連なる友人の輪を彼は大切にしています。その中に私が加わっている事はなんと幸せな事でしょう。パソコンとデジカメを出すと技術の進歩と使い捨ての風潮に話が及びます。自然破壊 と人間の思い上がり。しかし更なる技術開発で自然を壊さない新しいサイクルを見出す 以外抜け道は無いと言うのが彼の考え方の様です。アントニオとホセにお客様へのサインをしてもらい、次の製作の約束をしたのち、ホセ・マヌエル・カーノに連絡。2時半に郵便局の前で待ち合わせ。貴重なロジャースの糸巻きを分けてもらい、別れを告げました。
ホセ・マヌエルは会うなり抱き付いて抱擁。すぐ出てくる話題はやはりT氏と濱田 滋郎先生のこと。T氏はホセ・マヌエルが未だ学生の頃、日本へ招待して以来のお付き合い。フランシスコ(ビス・ニエト・デ・トーレス)の新しいギターの事、現在のコンサート活動、執筆しているグラナダのフラメンコの歴史の事などを話してくれました。4月5日にはアルメリアにトーレス記念館がオープンして、その開館記念のセレモニーで彼が演奏すること、私の企画している11月のツアーで、たくさんの人がプライベートコンサートを楽しみにしていると告げると、父でありマエストロであるマヌエル・カーノの事を思いだしたのか、涙ぐんでいました。医者であり良き家庭人で、感激家の彼。しかし、時間が無い。タクシーを拾ったときは既に3時45分、4時半に飛行機が出 ると言うと、運転手は興奮して尻に火が付いたような勢いで車を飛ばす。お陰で4時を 少々廻った時には空港に。でも最終搭乗は4時15分、ボーディングパスも予め取ってありました。愛すべきスペインの人々に感謝してゆっくりと搭乗。アルコール飲料を飲めないのに口をつけたシェリーのせいか、疲れのせいか、乗ったとたんに眠りに落ちて、気がつけばもうマドリッド。と、思って降りて見ると全く知らない近代的な美しい空港にいる?? <ン、飛行機に乗るまで何一つチェックは無く勝手に席に座ったので、ひょっとして間違った飛行機に乗ったのか。そんな馬鹿な。>と狐につままれた思いでさまよって出口を出るとようやく、見慣れたマドリッド市内へ行くバスが止まっていてホッとしました。バスに乗ってようやく気がつきました。降りたところは新しく出来たターミナル2。今までセビーリャへも、グラナダへも旧国内線発着場から出た為に、別のターミナルが あるとは聞いてはいたものの、こんな素晴らしい施設が出来ているとは全く気づかずいたのです。バスに乗りながら、今まで擁いていたスペインに関する概念が間違っていたとの思いが込み上げてきます。ピレネーから西はヨーロッパではないと言って自ら卑下しているスペインは、もはやここにはありません。共産圏との2極構造が崩れ去った今、ECという経済共同体にとって、アメリカ大陸との物流の拠点として、スペインの位置は大変重要になって来るのではないでしょうか。
3月21日(日)
朝、10時にマルセリーノ・ロペス邸訪問。マドリッドでハイソサエティーの住む地 域にある彼の邸宅は、何時もながらの落ち着いた風情を湛えて、静かな日曜日の朝に訪 問するのに相応しい場所。そう言えば、製作家仲間では冗談半分に司祭様と呼ばれています。ブザーを押してから、ゆっくりと彼の邸宅の撮影していると、忘れた頃ににこにこ笑いながら大きな鍵束を抱えて出て来ました。<ようこそスペインに、ご機嫌は如何ですか。> もう20数年の付き合いなのに、私達はお互いに敬称で呼び合っています。 <お蔭様で元気にしております。お見受けしたところ貴方もお元気そうで何よりです。> <いえ、昨年は風邪をこじらせて入院までしましたが、今年は十分に気をつけていますから、大丈夫です。> そんな会話で始まり、アウラが依頼した現在製作中のトーレスのフルコピーを早速見せて貰いました。オーダーとは少し異なった仕様で、様々な資料から気に入ったデザインと素材を選定してありました。イグナシオ・レシオ、ホアン・モレーノ、フリアン・ジョレンテなど、日本では殆ど知られていない楽器をいとおしげに出して見せてくれます。こうした歴史的な楽器に興味を持ち情熱を傾けている製作家は、恐らく彼とロマニリョスの二人きりでしょう。1940年代のバレンシアの楽器、テレスフォロ・フルベを譲ってもらうことを決めました。長年の懸案であるCDの録音に使用する楽器と曲目のレパートリーが決まったと演奏を披露。むろん技術的には素人の域を出ないが、師匠のフォルテア譲りのロマン的な演奏は、彼の人柄と歴史を感じさせるもの。そんな事をしてないで、もっと楽器を作って欲しいという気持ちは山々ですが、完成すれば貴重なCDとなることでしょう。
午後T氏が昼食を招待。新築のマンションの最上階。テラスだけでも30平方m位ありそうな豪華さ。奥様の手料理が美味しい。彼女は英語教師なので、3カ国での会話。そこへ彼女の兄弟が来訪。ジーメンスの医療機器部門で働く技術者で話はインターネットの事に。あーでもない、こーでもないといろいろやっているうちにすっかり遅くなってしまいました。車でホテルまで送ってもらい、最終日は空港まで見送りしてくれるとの事。ありがたいことです。
3月22日(月)
朝一番にペドロ・バルブエナの工房訪問。楽器をパコ・デ・ルシアが見てくれるとの事で近々会うようです。セビーリャで行われる楽器コンクールに出品も準備中でやる気 十分。タクシーでアルカンヘルの工房へ。アルカンヘルもマルセロも素晴らしい出来の 楽器で言うことなし。コンセルバトワールに駆けつけ、久しぶりにホルヘ・アリサに再会。11月の旅行で 何か演奏して欲しいと依頼。なんだかんだと言い訳しながら承諾。アンジェロ・ジェラルディーノのマスターコースが今日から行われていました。明日昼食を招待する替わり に潜り込ませてもらう約束。とって返して、午後は昨日に続きロペス邸へ。今度はルベンも駆けつけてくれましたが、かなり忙しい様子。次回の作品のこと等話しているうちに時間切れ。ルベンの奥様のアリシアがホテルまで送ってくれました。
3月23日(火)
いよいよ最終日、アルカンヘルの工房へ。荷造りや今後の事を打ち合わせ。 昼はホルヘ・アリサと一緒に日本食レストラン花友へ。ここのオーナーの子息2人は私の教え子にあたります。午後はマエストロ・アリサとアンジェロのマスタークラスへ。 歌の上手い先生でフレーズの取り方、歌わせ方、各声部のバランス、楽曲構成を歌いながら指示していくと、曲が見違える様に生きてきます。とって返してアルカンヘルの工房へ。荷造りが済んだギターと納品書を受け取り、マルセロと別れを告げてもそれだけでは未だ帰れません。アルカンヘルの愚痴に付き合ってホテルに戻ると9時半。
3月24日(水)
朝、7時半。大急ぎでレポートを書いてようやく現実の時間に追いつきました。日本に帰って最後のまとめを書く時間が取れるかどうか。 いずれにせよ、ひとまずスペインからのレポートはこの辺で。