アントニオ・デ・トーレスは、古く長い伝統を持つスパニッシュギターの製作法を研究、豊かな音量と多彩な音色を生み出す大型のボディと構造を創始し、コンサート・ギターを確立して現代ギターの礎を築いた、ギター製作界のストラディヴァリと称される巨匠である。

ギター製作史上最大の人物が、アントニオ・デ・トーレスであることは言うまでもない。その彼はギター改革者と言われるが、実は楽器構造においては、先人たちのギターをモデルにしている。時には新たな力木の配置、トルナボス(写真1)の使用もトーレスのアイデアと言われるが、これも彼以前にすでに行なわれていたことだ。

写真1 トルナボス:サウンドホールの内部に装着するメガホン状の筒。音量・音質の改良を目的としたが、現在ではほとんど行なわれない。(写真提供:黒田正義)ではトーレスの偉業は何かと言うと、”かつてのギターには見られない美しい音色を生み出した”突き詰めて言ってしまえば、それだけのことなのだ。とはいえ、その美しい音色は誰をも魅了してしまう。明るい音、楽しげな音、まろやかな音、そして沈む音、哀しげな音、淋しい音。弾き手の腕が良ければ、トーレスのギターはさまざまな表情を紡ぎ出す。まずこの楽器に惹かれたのは、他ならぬ彼と同業のギター製作家たちだ。表1を見てほしい。

のちの名だたる製作家たち、そして名のない彼らも、トーレスの跡を追ったのだ。
 もちろん、これにギタリストも続いたことは言うまでもない。
 それを裏付けるように彼が亡くなって120年経つ今も、ギターコレクターが血まなこになって探し求めるのがトーレスだ。
 表にはないが、モデスト・ボレゲーロ(1891-1969)、アントニオ・エミリオ・パスクアル(1883-1959)もマヌエル・ラミレスの弟子で、素晴らしい作品を残している。
またエンリケ・ガルシアはこれまで、ホセ・ラミレス1世の弟子とされてきたが、彼が長く師事したのは、マヌエル・ラミレスである。
 このように卜-レスは、ギター製作のピラミッドの頂点に燦然と光り輝いている。
 ギター演奏形態の移り変わりにより、今日は頑強な作りを目指す製作家も多い。音量の少ない卜-レスが、大ホールでの演奏に不向きだというのがその理由だ。しかしギターはピアノのような音量は必要がなく、この楽器がかもし出す音量が最も美しく響くように出来ている。
音量を云々するなら、今は音色を損なわない音響機器がある。そして音色がギターの魅力を支えている限り、トーレスの王座の地位は揺るがないだろう。

◆近代ギターの幕開け

 アントニオ・デ・トーレスが1817年6月13日アルメリア市郊外のラ・カニヤーダ・デ・サン・ウルバノ地区に生れた時、スペインのギター製作はまさに発展途上の段階だった。
 ギターは6復弦から6単弦へと移り変わりを見せ、糸巻も木製ペグから金属製、そしてサイズも次第に大きいものが作り始められた。すなわち確かな製作法がまだ定まっていなかった時代である。
 トーレスは父親の仕事の関係から13歳で近くの町ベラに移り住み、そこで大工見習いの職につく。当時スペインでは彼の年齢で仕事を持つのは当たり前のことだった。そして18歳で結婚すると、何かがひらめいたかのようにグラナダに引越しして、ギター製作を始めるのである。そこで彼は当時最も知名度の鳥かったホセ・ペルナスを師とした。これについては卜-レス研究家のホセ・ルイス・ロマニーリョスは否定しているが、その事実は疑いようもない。トーレスはペルナス独自の梨型ギターと全く同じものを1852年と54年に製作している。師弟関係が厳格だったあの時代、トーレスがペルナスに学んでいなければ、これはあり得ないことである。またペルナスの多くのギターにはトルナボスが配置されているから、この方法も師から学んだであろう。
 さて残された卜-レスのギターを見ると、彼がいかに良い音色を求めていったかが、よく分かる。そのために彼は、あたかも実験の連続のように、ギターの製作法を1本1本変えている。表面板は通常一枚の板を半分に割り左右に分けて配置するが、トーレスは表面板に2枚の異なる板を使うことも行なった。 しかもその表面板も、徴妙に1本1本の厚みを変えている。また弦長を安定させる駒(ブリッジ)は音色に関係すると述べ、同じ駒を2つと作らず、デザインも全部違う。
 探求心が旺盛だった卜-レスは、10本あまりの11弦ギター、バンドゥリアも製作しているが、11弦ギターは盲目の名ギタリストのマンホン、バンドゥリアはこの楽器の名手カテウラの要求によるものだ。
 こうした白紙の状態からの製作スタイルは、タレガのギター奏法の改革と極めて似ている。そのタレガは卜-レスのギターにより、それまで見られない甘美な作品を生み出した。そしてトーレスもまたタレガの名演奏によって楽器の真価を知られていく。このように、近代ギターは、同時代の2人の天才によって幕が開けられたのである。

 ◆アルカスとの出会い

1845年卜-レスは夫人のフアナ・マリアを肺病で失うとすぐにマドリッドに出た。1835年にフアナと結婚した時もすぐにグラナダに引っ越したように、彼は身の上に何かが起こると環境の変化を求めている。その最たるものが、絶頂期にあった1869年に突然セピーリヤの工房を畳んでアルメリアに帰郷し、そこで陶器店を開いていることだ。1859年から’69年といえば卜-レスが最も傑作を生み出した時期だが、その不可解な行動は次の新聞記事から読み取れそうだ。これはブリアン・アルカスがトーレスと初めて出会った1854年頃のセピーリヤの居酒屋での会話である。
「トーレス(T)あなたは私がギターの工場でも持っていると思っているのですか? 私は事業家などではなく、製作家です。したがって気が向いた時だけギターを作っているのです。

アルカス(A)では気が向いて、私に1本作ってくれないだろうか。
T 作りましょう。ただし、いつ完成するとは言えません。
A しかしそんなに時間のかかることではないでしょう。
T それは私の気の向きようです。
A ではお金で解決できますか? もし良かったら先払いしますよ。
T とんでもない! そんなことをされたらもっと時間がかかります。
A あなたの言うことが理解できない。
T 簡単なことですよ。私は生活に困ったらギターを1本作り、それを売ったお金で喉を潤します。しかしワインを飲むお金に不足していない時は、あなたのギター作
りに取りかからないのです」
(1931年1月31日付けのバルセロナの日刊紙’ラ・ノーチェ’に書いたホアキン・モンテーロの記事より)
 これはトーレスの親友のマルティネス・シルベントが、タレガから聞いた話を元に書いた記事を引用している。
シルベントはさらに、トーレスがワインには目がない人物だとも語っている。すなわちこの天才ギター製作家は、アルコールをこよなく愛し。気が向いた畤だけ仕事をしていたということになる。
 トーレスは1853年にセピーリヤに出たが、このアルカスとの出会いの時、彼はまだ家具職人の仕事のかたわらギター製作を行なっていた。そこでアルカスは卜-レスの腕を見込んでギター製作家として独立することを勧め、彼のギターの注文主も紹介していった。このことも1931年2月11日付のアルメリアの日刊紙”インデペンデンシイア’で先のシルベントは語っている。こうして彼らは急速に観交を深めていく。1868年にトーレスが2度目の結婚をした時に仲人を務めたのもアルカスで、2人は同時期にギターから身を引
き、どちらも故郷アルメリアで商売を始めている。トーレスは陶器とガラス細工を扱う店で、アルカスは穀物類の販売である。しかし数年後には申し合わせたように、どちらもギターに復帰している。
2人はよほど親しい仲だったのであろう。アルカスのアドヴァイスを得て卜-レスのギターは飛躍的に向上し、1856年にはついにあの名高い’ラ・レオーナ(牝獅子)’と呼ばれる楽器を完成した。

◆ストラディヴァリウスのスパニッシュギター

トーレスはギターのストラディヴァリウスと呼ばれるが、本家本元のストラディヴァリウスも嬉しいことにギターを残している。
 このクレモナの巨匠アントニオ・ストラディヴァリ(1614-1737)は1666年から‘79年まで、二コロ・アマティの工房で弟子として製作技術を学んだ。彼の作ったl本目のヴァイオリンのラベルには 「二コロ・アマティの弟子のクレモナ人、アントニオ・ストラディヴァリウス1666年に製作」と書かれている。彼の本名はストラディヴァリだが、彼の楽器には18世紀の慣例に基づき、ラテン謡であるストラディヴァリウスの名を用いた。
 彼は人生50年と言われたあの時代に95歳まで生き、1.116の楽器を製作している。その内訳はヴァイオリンが1.060挺、ヴィオラとチェロで50挺、ハープを1台、そしてギターが5本である。これを卜-レスと比べて見よう。彼は1840年から’69年までに約145本、1875年以降は製作番号が付けられた155本、都合約300本のギターを残しただけだ。
 したがって、ストラディヴァリは、トーレスより4倍近くの楽器を作っている。
 それは彼が酒にもおぼれず、クレモナを一歩も離れず、ひたすら楽器製作に没頭したからである。その上卜-レスの半分近くのギターが材料の質を落とした二級品だが、ストラディヴァリはすべて一級品だ。2011年6月21日イギリスのオークションで”レディ・ブランド’と名付けられたストラディヴァリの1721年製のヴァイオリンは、何と約12億7千万円で落札された。このようにストラディヴァリウスの値は上がる一方だが、ギターという不老不死ではない楽器を作った卜-レスには二級品も多いため、値は下がるばかりだ。日本にはかつて16本以上のトーレスが存在したが、現在では10本ぐらいで、彼の最盛期のギターは5本にも満たない。
 話をストラディヴァリに戻すと、彼の製作は1700年から1720年までが黄金時代と呼ばれている。そしてこの時期にあたる1700年(写真2)と1711年作のギターがあるが、ストラディヴァリのギターを研究しているカルロス・ゴンサレス氏によると、この2本は他の1675、・80/88年作に比べ、ずっと出来映えが良いそうだ。しかし作りは頑丈であるものの、ギターの音色には魅力がないという。これはおそらく、彼の側に優れたギタリストがいなかったこと原因だろう。

この時代の名手であるフランシスコ・コルペッタ(1615-゛81)、ガスパル・サンス(1640- 1710)、ロベルト・ド・ヴィゼー(1650 - 1725)、ルドビコ・ロンカッリ(1654- 1713)らは残念ながら、ストラディヴァリからはるか遠くの場所で活躍していたから。

◆夕レガとラ・レオーナ

フランシスコ・タレガが17歳の1869年にセビーリャのトーレスの工房を訪ねた時、まず見せられたギターは二級品だった。ところがタレガの演奏に感心したトーレスは、自分用に大事にしていた1864年製のギター(写真3)を奥から取り出してきた。そして これがタレガが終生愛用するギターとなった。

このギターはタレガ亡きあと、ドミンゴ・プラトを介して、当時まだ10歳だったアルゼンチンのマリア・ルイサ・アニードの手に渡った。その後バルセロナに引越した彼女は生活のために110万ペセタで手放したが、これには仲介者がいたため、アニードには50万ペセタしか入らなかった。その後もこのギターは何人かの手を通ったが、現在は私の友人のブルース・パニスターが所有している。 身長208㎝の大男のこのアメリカ人とは同じ時期にレヒーノ・サインス・デ・ ラ・マーサに学んだ間柄だが、その後彼はギターを辞めて、ギターブローカーの仕事を始めた。その彼からタレガのギターを見せてもらったが、そこにはタレガの喫煙による木の焦げ跡が無数に残っていた。ニスの塗装が剥げているばかりか、木そのものにまで焼け跡は達している。そしてサウンドホールの中は、図2のように3枚ものラベルですっかり塞がれていた。

さて1856年にトーレスは通常の構造とは異なるギターを開発したが、これはのちに”ラ・レオーナ(牝獅子)”と呼ばれることになる 彼の最高級品の第1号だった。トーレスはラ・レオーナを数本しか作らなかったが、最初にこのギターを使用したのはアルカスで、タレガは10歳の時にこの楽器によるアルカスの演奏を聴いてギタリストを目指した。そして同じ1856年に完成したもう1本のラ・レオーナは極上の出来で、のちに”エルビラのラ・レオーナ”として世に知られることになる(写真4)。

アルカスはこのギターを売ってくれとトーレスに何度も言い寄ったが、トーレスは決して首を縦に振ることがなかったという。 そしてこのラ・レオーナは、様々な伝説を生んだ。 1885年、タレガはアルメリアのトーレスの工房を訪れたが、その時にトーレスは彼の最大傑作である先のギターを見せ、次のように話した。 「このギターだけは手放さないと心に決めていましたが、あなたの素晴らしい演奏を聴いて考えが変わりました。愛奏して頂けるのなら喜んで売りましょう」 それに対しタレガは、「この楽器は私が今までに見た最高のギターです。しかし今の私は一文無しです……。これには名前が付けられていないのですか? それなら”ラ・レオーナ”と呼んではどうでしょう」 ラ・レオーナの名は、この時初めて付けられたのである。

ラ・レオーナはメスのライオンのことだが、ほかに「高貴」「豊饒」の意味も持つので、タレガはこのどちらかの言葉を指したのだろう。

 トーレスの親友のシルベントによると、タレガは「ラ・レオーナの名付け親は私だ!」と言って、いつも得意そうに話していたという。月日は流れて、トーレスが他界した翌年の1893年のこと。そのころタレガにはエルビラ・ミンゴットという若くて美しい生徒がいた。写真で見る限りタレガが好んだ女性の中では最も美人で、彼女には〈ハイドンのメヌエット〉を編曲して献呈している。エルビラはアリカンテの富豪の娘で、出不精のタレガがこの時ばかりは頻繁にこの地を訪れ、エルビラの家に滞在してレッスンをしている。そうした中、タレガのもとにトーレスの工房で彼が見た先のラ・レオーナを、亡きトーレスの娘アニータが売りに出しているとの情報が入った。するとタレガはあの穏やかな性格から考えられないほど迅速に行動し、ラ・レオーナ獲得のために動き回った。

可愛い弟子に、自分には手の出なかった銘器を持たせたかったのだろう。

そしてついには売り主を怒らせるほどまでに値引き交渉をして、2,500レアールで買い求めた。先方は4,000レアールを要求していたから、エルビラの父親フランシスコも大喜びした。それを見てタレガは

 「これで二本のトーレスが揃ったので、エルビラとコンビを組んでデュエットを行いたい」と申し出たが、フランシスコはそれを固く断った。ブルジョア階級の若く美しいエルビラが、いくら名声を得ていたとはいえ年の差のあるタレガと出歩くことは、世間の目が許さなかった時代である。そしてこのあと父親は警戒心からか、すぐに娘がタレガのレッスンを受けることを辞めさせてしまった。

 それからさらに20年の歳月が過ぎた1913年。フランシスコ・ミンゴットは事業に失敗して破産し、ラ・レオーナもその運命に巻き込まれてしまった。新たな所有者はニコラス・ヒメネスだが、彼がラ・レオーナを受け取りにミンゴット家を訪ねると、エルビラは喪服に身を固め、涙を流しながら”アディオス”と別れを告げてからその愛器を手放したという。

 このヒメネスは1920年にイラリオ・ソルソナに高値で売り渡したが1940年にはサントス・エルナンデスがこのギターを修理した時に、すべての寸法を計っている。1979年にソルソナが亡くなるとそれは娘のアラトランが引き継いだが、彼女はすぐにエルネスト・ハンネン博士に日本円で約700万円で売却。その後このラ・レオーナは製作家のマルセリーノ・ロペスのもとに修理のために持ち込まれると、ロペスはこれをすっかり真似てトーレスモデルとして製作販売した。さらに・・・・・・。もうよそう。

◆アグアドにギターを学んだトーレス

ディオニシオ・アグアド(1784-1849)のギター教本はつとに名高いが、彼はまた楽器としてのギターにも精通していた人物である。

1838にアグアドがフランスのルネ・ラコートに作らせたギターは、それまでのラコートの型、弦長などと大きく異なる。そこに見られる駒(ブリッジ)もアグアドが開発したもので、彼の教本には「1824年に私が発明した駒により、ギターの強度が増した」と述べている。また糸巻きについても当時主流であったペグ式ではなく、左手だけで調弦できる現在と同じ金属製のものを勧め、弦長は650mmがふさわしいというのもアグアドの意見だ。18世紀末は弦長620mmが平均的なもので、ソルでも630mmだから、アグアドは先見の明があった。

 ギタリストは2つのギターを使用すべきとの言葉も興味深い。

「ひとつはコンサート用、もうひとつは強く弾弦するための張りの強い練習用」

 弦の選び方にも触れているが、注目すべきは「トリボディソンまたは固定装置」と呼ぶギターの指示具を発明したことだ。今世紀に入ってから、多くのギタリストが様々のギター保持具をしているが、これもアグアドのアイデアの延長線上にあることだ。

アグアドは1839年か翌年の初めに長年住み慣れたパリを離れてマドリッドに戻り、亡くなる1849年までここで教授生活を行った。
その時彼を喜ばせたのは、門下からアグスティン・カンポという天才少年が出現したことである。
アグアドがすべての愛情をカンポに注いでいるところを見ると、この少年の腕はよほど抜きんでていたのであろう。〈華麗な変奏曲〉、〈変奏つきファンダンゴ〉を彼のために書いたばかりか、カンポ15歳の誕生日を祝って、1849年7月31日付けで、ソルの〈グラン・ソロ〉を編曲してプレゼントしているのだから。いや、それだけではない。
アグアドは遺言を書き、10冊のアグアド教本最終版を初めとするすべての楽譜、書物、そして自らが愛用したラコートのギターを譲り渡している。それほどまでに期待されたカンポだが、彼は師アグアドが他界すると、なぜかギター演奏から離れ、当時マドリッドで最も著名だったファン・ムニョアの工房を引き継ぎ、ギター製作を行うようになった。しかしそれも僅かな年月で、次にはギター専門店(後に息子のホセ・カンポ・イ・カストロが総合楽器店とする)を経営し、同時に楽譜の印刷販売も行っている。

さて、1845年から‘53年までトーレスの足跡はぷっつりと切れ、”空白の年月”と呼ばれるが、彼はその間何度もマドリッドに滞在していた。カンポがアグアドに指示していた時期、実はトーレスも一緒にギターを学んでいたのである。
彼が亡くなったとき、その遺品の中からアルカスが1876年にトーレスに捧げた〈ムルシアーナ〉の楽譜をはじめ、トマス・ダマスのギター教本、アグアド教本、ホセフェレールから贈られた曲集など多くの楽譜が見つかっている。彼はギターも弾いていたのである。
1884年8月2日のアルメリアの新聞”メリディオナル(地中海)”紙には
「アントニオ・デ・トーレス氏は早くからギターに惹かれ、のちにディオニシオ・アグアドに学んだが、師の所有していたギターをモデルにギター製作を始めた」
とはっきり書かれている。これはトーレスがアルメリアで製作を行っていた時のことだから、当然彼はこの記事を目にしている。トーレスは製作を始めた過程でギター演奏の必要性を感じ、アグアドに指示したが、その時製作上でのアドヴァイスをも受けたに違いない。
この時期のトーレスのギターはアグアドが使っていたラコートを真似たもので、弦長が650mm、駒も同じで、そのうえトリポーデを取り付けられる器具を付けていた。彼の初期のギターにトリポーデを付けられる器具を付けていたことは、現在ラミレスのコレクションにある1852年製のトーレスにその跡が見られることからも明らかである(写真6)。ついでながら述べると、1902年12月10日付けでタレガがホセ・ラミレスI世に宛てた手紙(写真7)の文面から、タレガがトーレスと親交が深く、またトーレスとホセ・ラミレスI世も付き合いがあったことがわかる。

「1902年12月10日バルセロナ

 ホセ・ラミレス様

 我が盟友トーレス氏より光栄にも貴方様をご紹介いただきました。マドリッドの多くのギターファンに私の演奏を披露してくださるとのお言葉、大変名誉なことと恐縮しております。しかし、近々イタリアに出発するためその願いもかないません。いずれ貴方に直接お目にかかってご挨拶する日が来ると思います。

 フランシスコ・タレガ」

それに対しラミレスは、1903年1月に再びコンサート依頼の手紙を送ったがやはりタレガは丁重に断っている。

 「1903年1月11日 バルセロナ

 ……心より感謝しております。私もあなたにお会いしたく、またささやかな私の演奏を披露できることを願っています。おそらく4月にはマドリッドに行けるでしょう。その時はあなたにお知らせします。私の写真をあなたに捧げるのは大変光栄で、明日郵便にて発送します。今度水曜日にローマに出発しますが、またの連絡をお待ちください」

 しかしその後タレガはマドリッドに出かけることはなかった。次にラミレスからギターも送られてきたが、これに対しても次のように断っている。

 私はすでにトーレスという正妻を抱えており、ほかの楽器に取り換えるという浮気ができない状態です。明日郵便にて返送させていただきますので、なにとぞご了解ください」

 さて、トーレスはカンポが買い取ったムニョスのギター工房で一緒にギター製作を行っている。このあとアルメリアとセビーリャで1854年までに作ったトーレスのギターはすべて、こうして親しくなったギター販売店「ベニート・カンポ・ギター工房」で売りに出された。そこには1852年にアルメリアで、’54年にセビーリャで作られた2本の梨型ギターも含まれている。この’52年製は現在マドリッドの製作家パウリーノ・ベルナベのコレクションになっているが、これはトーレスが”Citara”と名付けて長年愛用したギターだという。そして1854年製はどこをどう巡ってか、一時期日本のコレクターが所有していた。

◆晩年

トーレスのギターはおおまかに見て、次のように分けられるだろう。

第Ⅰ期 1840-’58年までの作。この時期に最も多くの二級品が作られている。
第Ⅱ期 1859-’69年の作トーレスの絶頂期で、名手のほとんどはこの年代のギターを使用。
またコレクターもこの時期のものを求める。
第Ⅲ期 1880年以降の作。一時引退したあと再び復帰してからのもので、すべてのギターに製作番号がつけられている。
トーレスは最も油の乗っていた1869年に突然引退して、故郷アルメリアで商売を始めたが、それはギターが売れずに先行きに不安を感じていたからである。当時のギターの名手は、アルカス、タレガそしてフェデリカーノしかいなかった。アルカスとタレガはどちらも3本トーレスを購入している。他にトーレスの一級品を求めたのは、上流階級のギター愛好家だけで、それも数には限りがあった。そこでトーレスはやむなく誰からも注文をうけ二級品も作ったが、そのことでジレンマに陥り、結局引退の道を選んだのだろう。しかし頑固で気まぐれな性格のトーレスに、陶器類の販売は向かなかったと見える。そしてギター製作に未練が残っていた彼は、その間に2人弟子に製作指導をしている。1人目のホアキン・アロンソのギターのラベルには「トーレスの弟子」と書かれ、もう1人ホセ・ロペス・ベルトランのラベルにも「トーレスの唯一の弟子」と記されている。しかしこの2人の名が世に出ることはなかったから、トーレスが教えたのはわずかなものだったのだろう。生活が不自由になったことから1875年トーレスはやむなく製作を再開する。そして1本ずつに時間がかかる仕事で細々と生活していたが、そこへ救いの手を差し伸べたのが、当時勢いのあった名ギタリスト、フェデリーコ・カーノである。彼はトーレスのギター演奏の腕にも感心して<ブランコ・イ・ネグロ>というやさしい曲を捧げているが、賞讃したのはもちろん楽器の方だ。フェデリーコはトーレスに自宅の一室を提供し、そこでギターを作らせた。

その1884年から‘85年にかけてのギターは、フェデリーコ自身が5本も購入し、残る4本は彼の弟子と友人に紹介している。しかしこれを最後にトーレスの手には震えが来て、もう1人では仕事が出来なくなってしまった。
1931年1月29日付けで、ファン・マルティネス・シルベントが友人に宛てた手紙にそのことが書かれている。
「当時トーレスは68歳で楽しみにギターを弾いていましたが、その製作においては私が手伝いました。トーレスはサインも出来ない程に手に震えがきていたため、繊細な作業は私が行ったのです。そうした仕事の時、彼は必ず工房の扉を締めて鍵をかけ、家族を含め誰にも会わないようにしていました。
この工房にはタレガはじめ多くの名士が訪れてきました。ギターの注文は南米からのものが多かったです」
ギター製作の術を知り尽くしていたこの偉大な人物は、1892年11月19日、アルメリアのラ・ランブラ・デ・アルファレーロス街8番地で、75歳で生涯の幕を閉じた。
栄光と貧困生活の狭間の中で。