まず私の父である禰寝孝次郎と、尾野薫さんとの交友関係は40年ほど前に遡ります。当時恵比寿で父が働いていた楽器店に尾野さんが訪れ、製作についての相談を持ち掛けたことからだそうです。父によれば横板の曲げについて相談を受け、自分のアイロンを貸すために工房に招いたことから、親交が深まったと朧気な記憶ながら話してくれました。それから居酒屋などで幾度となく製作についての議論を交わしながら交流を重ねていったとのこと。その時お互いに出し合ったアイデアは、現在に至るまで父の楽器製作に影響を残しているそうです。

父と尾野さんの出会いから2、3年後に私が生まれることになりますが、その頃には時折父の工房に通うようになっていた尾野さんに、記憶こそ無いものの出会っていたことになります。物心がついてからの幼少期には、家近くの池まで釣りに連れて行ってもらったこともあり、優しいおじさんとして懐いていたように思います。 月日が経ち私も学校を卒業し、ギター製作の道に進もうと決めた年の弦楽器フェアにて、尾野さんと再会することになります。思い出にある優しい雰囲気は変わらず、親戚の子にでも会うように接してくれました。そこで初めて尾野さんの楽器に触れ、まだ何もわからないながらも、その完成度と、雑然として騒がしい会場の中でもはっきりと聞こえる輪郭のある音色に驚き、感動したのを覚えています。 

アウラで働き始めて、尾野さん田邊さんからリペアの技術を学ばせてもらいながら、製作についてもお話しできる機会ができました。父の教えのみが知識の全てだった私にとって、はじめはその違いに戸惑うことも多くありました。というのも父の目指しているものと尾野さんの目指しているものとでは全く別方向を向いていたからです。 父の教えには直感的な物も多く、グラナダで学んだことと長年製作してきた経験をもとに、常に新しく魅力的な音色を求めて現在まで至った、いわばアイデアの集大成のようなものでした。片や尾野さんは弦楽器的な魅力のある音を構造から見直し、名器にはどのような性質の楽器が多いか分解し言語化した上で音楽を表現する楽器としての性能を高めることを求めていたと思います。(私見ですが)

二人とも依然仲は良いものの、教えが真逆になることも多く、製作を始めて2、3年程度の自分にはどちらの言っていることが正しく、どういう楽器を作っていくべきなのか、軸が定まらない日々が続きました。とはいえネジメギターを継ぐと決心した身、とにかく父の教えを信じていくと決めましたが、父はあまり言語化するタイプではなくその構造に至った理由、より良くするための考え方などは「自分で考えてとにかく作ってまた考えろ」と言われることがほとんどでした。
そこで最初は理解するまでに時間がかかることも多かった尾野さんの理論が、理解すればするほど矛盾のない明確さで正しいもののように思えてくることもあり、そうかと思えば父の言っている感覚的な部分で大事な事もわかってしまいます。 今思えばどちらも正しいし、二人の楽器はどちらも好きでいい。私はただ自分の楽器を追い求めればよかっただけですが、当時答えが定まらない五里霧中の中、楽器を作るのにはかなりプレッシャーがありました。

後に聞いたところによると、尾野さんも私に製作のアドバイスをくれる時にはかなり気を使ってくださっていたそうです。そんな中でも様々なことを根気強く教えてくださったおかげでようやく視野を広く持てるようになりました。父の教えと尾野さんの教えどちらも消化して、自分の製作と向き合うことができるようになったと思います。
時には私のほとんど思い付きのようなアイデアも一蹴することなく議論を交わしてもらえ、考え方などを共有してもらえる時間は、この上なく贅沢なものでした。 常に柔軟により良い方法を模索し、最後の最後までギターのことを考え、私たちに伝えて繋いでくれたことに感謝の一言では言い表せません。尾野さんの教えてくれたことを銘肝し、尾野さんがしたように自分の楽器を突き詰めて次に繋げていくことがせめてもの恩返しになることを願います。

禰寝 碧海