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第14章 ラ・レオナ

「ラ・レオナ」という名称は、比類ない響きと豊かな音量のために与えられたもので、雌ライオンではなく雄ライオンの力や姿にふさわしいとされた。
女性形の「レオナ」という言い換えは、「ギター」という名詞がスペイン語で女性名詞であることによる。
伝説的なレオナの更なるエピソードは、トーレスの死後、裕福な実業家でありアリカンテの市長でもあったフランシスコ・ミンゴット・ヴァルスが、彼の娘であるエルヴィラ・ミンゴット・バスのためにトーレスのギターを買い求めようと決めたことに始まる。
彼はその頃、娘にタルレガのレッスンを受けさせていたから、おそらくこの件でタルレガのアドバイスを受けただろう。
タルレガは、アリカンテに寄るときはたいていミンゴット家に滞在した。タルレガはエルヴィラを可愛がって、彼女にハイドンのメヌエットを編曲して贈った。タルレガの訪問は1888年には始まっていたと思われる。
彼は東部の都市で演奏会を開くために家族とともにバレンシアに引越していた。

物語は1893年5月、ミンゴットがイホス・デ・グレゴリオ・カラタラ社の代表者であるマルコ氏に、トーレスの遺族にどのくらいの価格なら譲ってもらえるか問い合わせるよう依頼したことから始まる。
彼は遺族を見つけられなかったので、価格もわからなかった。何も返事が得られないので、ミンゴットは友人のホワン・ロヴィーラに懇願する手紙を書いた。
当時、ロヴィーラはアルメリアではなく、故郷のサン・フランシスコ・デ・パウラに住んでいた。

1893年10月22日、ロヴィーラはミンゴットを安心させるために、ミンゴットの望みをかなえるためなら必要なことは何でもすると手紙を書いている。
アルメリアへ戻ったとき、彼は状況のトーンを下げ、価格をできるだけ低く抑えるために、内密に話を進めることにした。
彼はアルメリアではよく知られていたからだ。そして、ギターを購入するためにラ・カニャーダ・デ・サン・ウルバノに住むトーレスの娘のところへ仲介者を送った。
第三者による最初の問い合わせではうまくいかなかったようだが、これは、仲介者にもトーレスの娘たちにもどれがラ・レオナなのかわからなかったためと思われる。
「ラ・フェア(醜い作品)」というギターが選ばれ、10,000レアルの値段がつけられた。
このあだ名は、取引の際に本当の名前を隠すために導入されたと思われるが、ミンゴットが書いたレポートによれば、トーレスがレオナに対して使っていたという。

ロヴィーラは、本物のレオナとは異なる点を記載してミンゴットに送った。売買が確定するのに1ヶ月を要したことを詫びる中で、ロヴィーラは次のように書いている。「トーレスの子孫はここアルメリアにはおらず、ラ・カニャーダ・デ・サン・ウルバノに住んでいて、そこは言ってみればアリカンテからサン・ホアンへ行くようなものです。何度も行き来したのちに価格は3,600レアルまで下がりました。」

ミンゴットは、レオナかどうかわからないギターに対して高すぎると思ったに違いない。
彼はタルレガにレオナに関する更なるアドバイスを求める手紙を書いた。タルレガはミンゴットに返事をする代わりに、マルティネス・トボーソがトーレスを良く知っていて、レオナを弾いたことがあるのを知り、その手助けを懇願する手紙をトボーソに出した。
マルティネス・トボーソは快くタルレガの申し入れを受け入れ、タルレガを経ずに直接ミンゴットに次のような手紙を書いている。
良き友人であるフランシスコ・ミンゴット様

私はあなたが購入しようとしているギターは名高いレオナではないと確信します。有名なラ・レオナは、ラ・フェアではありませんし、レオナの胴はハイチではなくシープレスで作られています。
レオナはマシンヘッド(糸巻き歯車)を備えていませんし、駒は古いタイプであって、ゴンドラ型ではありません。
古いタイプの駒は染色したウォルナットでできており、ギターに関して間違いなく最も興味ある部分です。
また8フレットのあたりに白っぽい木目の線があるローズウッドの指板をもっています。

レオナはトルナボスを備えていて、裏板との間の小さな支柱によって支えられています。
これは、表面板がきわめて薄いためゆがむのを防ぐ目的でトーレスが入れたものです。
トルナボスの下端に小さな支柱をつけることによって表面板を支えようとしたのです。
また楽器全体は磨き上げられていません。フレットは12フレットまでドーム型となっており、13フレットからは古い角張ったタイプです。レオナはトーレスがトルナボスを取り付けた最初のギターであり、他のギターのモデルとして製作した入魂の作ですから、いくら金を積まれてもけしてトルナボスを取り外そうとはしなかったでしょう。
それはありきたりの仕事として終わらせるつもりがなかった彼の実験であり、偶然にも弾く人を不思議な世界へ誘う音をもつギターをつくり出すことになりました。

価格については、鑑定されたレオナを取引するのであっても、500ドゥーロは高すぎると思います。また、これは大型のモデルであって、エルヴィリータ(エルヴィラの愛称)には大きすぎます。タルレガのギターはレオナよりずっと小さいのです。更に、あなたが今回提示されて知らせてくれたギターの製作年月日から見て、私はホセ・プホール氏の子息のためにトーレスが製作したものと確信しています。トーレスが製作している間に、その子は亡くなってしまいました。その子はフリアン・アルカスの弟子で、おそらく我々の時代の最高の演奏家になるはずでした。数年経って、アルメリアの実業家だった彼の父親は破産してしまい、今は税関で仕事をしています。そのギターは素晴らしく、50ドゥーロに値するでしょう。ご家族とエルヴィリータによろしく。エルヴィリータによく練習して私の家を訪ねてくれるように伝えてください。親愛の情をこめて、トボーソより。

ここにはミンゴットに宛てた詳細な記述により、マルティネス・トボーソがラ・レオナについて精通していたことが読み取れる。
彼の記述は約40年後にホアン・マルティネス・シルヴェントによってなされた記述と、黒檀の指板を除いて一致している。

マルティネス・トボーソは、ラ・レオナに関する記述の中で、使われているフレットの形状の細部に至るまで詳細に述べている。一方、トーレスが導入した小さな支柱の機能については、製作家から知り得たことと作品に触れて得たことを述べるにとどまっている。
この小さな支柱は構造的に必要であり、1979年になっても使用されている。染色されたウォルナットのブリッジに関するマルティネス・トボーソの記述は、やむを得ない誤りと思われる。
それは、経年変化による濃い変色を目視で判断するため、今日でさえかなり難しい。1991年までに何度か穴を開けなおしてはいるものの、ローズウッドのブリッジがどこかの時点で交換されたという明らかな証拠は見られない。
マルティネス・シルヴェントは、マルティネス・トボーソによればオリジナルは木ペグだったものをマシンヘッド(糸巻)に交換したラ・レオナについて記憶している。
この変更は1880年代後半にカニャーダ・デ・サン・ウルバノで行われたに違いない。
この時期、シルヴェントは1887年から同地に滞在している。レオナのマシンヘッドは、1894年の5月以降に撮影されたミンゴット家の写真で確認することができる。そこではギターは新たな所有者であるエルヴィラ・ミンゴットの手に抱かれている。
トーレスは、複数の情報源から知られているように、ラ・レオナを生涯ずっと所有していた。
それは遺品の12本の中の未完成の1本であり、1892年の死後、遺族に残された。
これらのうちのいくつかは、小型のものも含め、現在もトーレスの子孫が所有している大きなセダーの箪笥に保管されていた。
マチルデの娘であるアナ・サルバドル・トーレスは、私が1974年に行ったインタビューの中で、彼女が子供のころ、家の中にあるギターをかき鳴らすのが好きで、母親に何度もしかられたと語っている。
トーレスは遺言書に「ギターはその価値に見合った価格で売却されなくてはならない。」と明確に記しているが、娘にどれがラ・レオナかは教えなかったようだ。マルティネス・トボーソがラ・レオナを見たときは、塗装が終わっていなかった。
この仕上げの欠如と、トーレスが新たな試みをするときは通常と同じように作業するという事実こそ、トーレスの娘がラ・フェア、つまりミンゴットが望んだラ・レオナがどれかわからなかった原因かもしれない。
入念にハイチウッドで仕上げることを勧められたにもかかわらず、マルティネス・トボーソの心に残ったギターは、ホワン・プホール・カシネージョ少年のために作られたギターだった。
ミンゴットがトボーソによって確認されたラ・レオナを真に見極めると、それを手に入れるために、すぐに優れたギタリストとして有名だったタルレガの助けを借りる計画を企てた。

1894年3月13日、タルレガはミンゴットに、3月19日にアルメリアに到着するつもりだと手紙で知らせた。
31日にタルレガは「とても困難な行程の末、昨夜ロルカから駅馬車でついに到着した」とアルメリアからミンゴットの手紙と共に友人のロヴィーラに宛てて書いている。
ロヴィーラは、タルレガによれば、隠遁生活をしていて、ほとんど力になってくれない人物である。
タルレガはこの手紙の中で、トーレスの遺族がラ・フェアを売却したいと熱望していて、少し待てばかなり安価で手に入れることができるかもしれないと述べている。
同じ手紙の中でタルレガは、「私の兄弟が200ペセタを得たと聞いてはいないが、私は今日までに彼の手に渡ったと推測している。アリカンテに到着するまでそう長くかからないので、その時にトーレスギターについて話ができるだろう。」と書いている。

アルメリアへの旅の間に、タルレガはテアトロ・ノベダデスでのコンサートと、カルタヘナでの更に2回のコンサートの手配をした。
カルタヘナから彼はミンゴットに宛てて、カルタヘナでのコンサートとラ・ウニオンで弾く計画を知らせた。「役所の責任者は私に華々しい海軍の軍楽隊をあてがってくれた。それはカジノとアテネオでの私のコンサートを華やかにしてくれて、すべては輝かしく終わった。」

フランシスコ・タルレガのアルメリア訪問は、珍しいことではなかった。彼はアルメリアで二回コンサートを行っており、1890年2月10日と21日であることがわかっている。1回目はテアトロ・デ・アポロで行われ、タルレガの死の2年前である。
アルメリアを出発する前に、彼がカニャーダ・デ・サン・ウルバノでトーレスの娘を訪れたかどうかはわかっていない。
ホワン・デ・トーレス・プハソーンによれば、彼がタルレガを訪ねたとき、場所はたぶんアルメリアのホテルのタルレガの部屋だったという。
トーレス・プハソーンは、明らかではないが、恐らくトーレスのいとこであり、トーレスの二人の娘はかなり若かったので、最終的な手続きの責任を負って、タルレガにラ・レオナを売却するために若いアナの腕をねじ上げた。
彼は当時の戸籍簿によれば62歳の労働者で、6人の子供があり、妻を亡くしていた。
タルレガがアルメリアを去る前、トーレス・プハソーンとタルレガの間に商談が成立したが、それはアナ・トーレス・マルティンを抜きにして行われた。
2500レアルという価格でタルレガは自分自身のためにギターを購入した。
トーレス・プハソーンにとって、ラ・レオナはタルレガのために製作されたものだった。1894年4月26日にトーレス・プハソーンがカルタヘナからタルレガに宛てた手紙では、アナ・トーレス・マルティンがトーレス・プハソーンにどれほど腕をねじられ、脅すような態度に辛抱しなくてはならなかったかを示している。
なぜアナの近親者が、家族を助けるために最大限の高額とせずに、有名ではあったとしても見ず知らずの人に安価で売却することをアナに強要したのか、理解することは難しい。
彼女は、タルレガが欲しがっているギターがレオナであることをその時まで知らず、それが有名なギタリストであろうとも、どんな価格でも売却する気になれなかったと思われる。


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