ギターを取り巻く世界に対し、その製作技巧について表に現れない仕事や構造面を明確に説明すべき時になったと思う。
それが故意に隠蔽された秘密と言うのではないが、こうした側面を真近に研究したり、少なくとも観察したいと望む人はあまりいない。
実際には、ほとんどの情報源、そしてそれらの背後にある単純な真実を、直裁かつ誠実に明るみに出すのにはわずかな試みで十分なのである。
ここで、情報の欠如と悪意で広められている虚偽の噂により、誤って信じられている事柄に対処するのが私の意図である。
それらは全く無節操な販売宣伝を目的とした結果である。
有用な評判が、誠実な行為と質の良い仕事だけで成り立っていた日々は幸せだった。
私は今でもそうした考えを大いに気に入っているのだが、現今の状況の下では、態度を変えざるを得ない。
ギター製作家が言うこととしては驚かれるかも知れない事から述べることにしよう。
ギターとは芸術作品ではなく、ほとんど根本的に技術的作品である。私は本気でそう思っている。
工房の仕事の合間に、数年前、有名な美術学校で4年間絵画の勉強をした。
だから、私には真の芸術と職工の作品の違いを明確に区別する資格があると思う。
モザイクのデザインとか、自然であったりそうでなかったりするボディライン、その他装飾の詳細には若干の芸術的な要素があるのを認めるし、好意ある方には、ギターが芸術的な商品と認めさせるに十分のものであると思う。
しかしながら、最も基本的要素を含めた残りのすべて、すなわち楽器の音そのものが、技術以上の何ものでもない。
そしてこのような認識は、相当な謙遜を要するものと思っている。
昔の職人工房が依存していたギルドは、11世紀末から12世紀初期にヨーロッパで生まれたもので、それは都市の経済的・商業的発展と、地域産物の生産ならびに販売をコントロールする目的で連帯を作ろうとする職人の要求の結果であった。
これらギルド組織は公的に認められ、収益とサービスを上納することを条件として一定の法制度が定められた。これら法規は一連の厳格な規定を含んでいて、組織の管理者(監視人、信任者、陪審員、親方、代理人など)の厳格な監視下におかれていた。
彼らは一般評議会で選出され、為政者の権威に支えられていた。監視人としての役割として、支配人らは規則を破る者には罰金や罰則を科す権限を与えられていた。
各々の職種の中で、三種からなる明確な階級が構築されていた。マエストロ(巨匠)、職人、徒弟である。
職人の範疇は徒弟からマエストロへの中途段階と考えられ、中世の終り頃には、マエストロの地位に上りたいと望むすべての職人は試験料として相当な額の金を納め、最高級の作品を提出することが求められた。
徒弟達は何らの報酬もなく2年から4年間の見習期間を過ごさねばならず、その後職人の職域に精進させられた。
徒弟ならびに職人は、経済的、社会的そして道徳的にマエストロに強く依存し、それは臣下とか家族的絆のような性格をもっていた。
ギルドは原材料の入手、分配、価格と労働時間の設定に権限をもち、他方各職場の責任者は賃金の取り決めや生産品の品質を管理していた。
マエストロの職務は、豊富な経験を基に、とりわけ教育することにあったが、設計しチェックしまた正すことでもあり、必要が生じれば道具を自らの手にとって作業遂行の最善かつ完璧な手法を実地に見せることにあった。
品質は必須の要素であり、この職域特性の有用性を保証するものだった。
同じく必須だったのが、仕事の指図人、経験と知識の伝授者、職人の仕事の監督、そして最終的には製作家としてのマエストロの存在だった。
これら制度は同時代、社会的かつ政治的両面において世の中に著しく作用し、偉大な芸術に影響を及ぼすほどだった。
ワグナーがオペラ”ニュルンベルクのマイスタージンガー”を作曲したのは、こうした制度にインスピレーションを感じてのことだった。
画家でさえ、特にルネッサンスの時代にはギルドの方式を採用し、徒弟ならびに職人(実際は生徒)を雇用した工房を開設した。
そうした工房から生まれた絵画には、事実として知られていることだが、巨匠は絵の主題とかそのデザイン、もしくは自身の手による僅かばかりの仕上げ以上の事はしなかった。
それら絵画は世界中の有名な美術館で誇り高く展示されているのである。
19世紀中葉に起こった産業革命は、こうした職人工房を徐々にではあるが完全に消滅させた。
もちろん、これは全てのギルド組織の消滅をもたらし、若干の象徴的ななごりが残るに過ぎず、別の組織-今日の労働組合-に道を譲り、生き残ったわずかの職人工房は、多かれ少なかれ社会に適応せねばならなかった。
こうした変遷を生き抜いた職人工房の中に楽器の製作者がある。
工房の工業化にはある程度まで成功したに過ぎず、それも平均的あるいは粗末な品質の製品について対応しただけであった。
現在ではマエストロの称号を得るに要する資格は、提出した傑作の審査に拠ることはない。(権威ある宮中会議の面前でギターを製作できる何人に対しても騎士の称号を授与したスペインの王アルフォンソX世(賢帝)の法令は、何と素晴らしかった事か。)
今やマエストロという名誉あるタイトルを獲得するための状況は異なり、また多くの異なる道がある-賞、公的あるいは一般の認証、展示などである。
19世紀の終りから今日にかけ、いにしえの徒弟制度ギルドの伝統と方式に従ったギター工房が存続した可能性はあるが、私は十分な情報も調査する手法も持ち合わせないので、当然ながら私が最も良く知っている家族内のマエストロ達に言及するに止めよう。
私は祖父ホセ・ラミレスI世の先生だったフランシスコ・ゴンサレスに関する何の知識も持っていないが、私の知る限り彼には他の弟子はいなかった。
祖父がなぜ自分自身(そして子孫達全員)を、ギター製作という不安定な仕事に踏み込ませ、しかも古いギルド制のギター工房を維持するとの決意を固めたのか、今でも私には分からない。
この決意はラミレス家全員によって守られ、それはまるで遠い過去から、生きて存在し続けている何かの力で私達にせまる、絶対的な命令に従うようなものだった。これが祖父の気紛れの一つだったのだろうか?
19世紀の終わり頃まで、ギター製作の商売には殆ど金銭的な重要性が無かった事を記憶しておかねばならない。
祖父自身が良く言っていた事だが、もしギター製作家が公的な厚生病院で死ねないとしたら、そこに入る手立てを持ち合わせないからだ。
他方、曽祖父のホセ・ラミレス・デ・ガラレータ(これが正しい名字)は、大変裕福だった。
曽祖父はサラマンカ公爵に協力して、公爵の名前を冠せられたマドリード地域の建設を手掛け、相当の資産を持っていたとの情報がある。
3人の息子の最年長だった私の祖父は、もっと危うくない仕事あるいは専門職を選ばなかったのみならず、弟のマヌエルを同じ愚行に引き入れた。
末弟はもっと実利的なセンスを持ち合わせていて、名のある裕福な株式取引人となった。
何物かへの本物の情熱を感じてのことでなければ、祖父の行為は理解できない。
1897年、ホセ・ラミレスI世はある展示会で、金賞と、同時に他の賞を合わせて獲得した。
彼には7-8人の弟子がいて、最も優秀だったのがエンリケ・ガルシア(後にシンプリシオの師匠となる)、パリで高名となったフリアン・ゴメス・ラミレス(偶然同じ姓だが私達の家系でない)、弟のマヌエル、そして息子で私の父親のホセ・ラミレスII世達だった。
私は父が、祖父の人格と内なる精神を物語る出来事を話していたのを憶えている。
あるマドリードのギター製作家の息子で、私の父と同年代の18歳の少年が、ある時1本の小さいギターを作ったが、多分子供用か、当時女性用に作られたギターと同種のものだった。
このギターがとても上品で魅力あるものだったので、少年の父親は当時高名なマエストロだった祖父に見せたいとの衝動にかられた。
私の祖父は、まことに良く作られたそのギターを賞賛し、この少年の作品を誉め、また同時に刺激になるようにと息子を招いた。
それには、おそらく他にも理由があった。私の父はこの小さい宝物をつぶさに観察し、本当に素晴らしい作品だと確かめたが、若輩の無邪気さでごく小さい欠点を指摘したが、実際にはそれを探していたのだった。
明らかに、これを祖父は待っていた。というのも祖父はその瞬間、父に強烈な平手打ちを見舞ったのだ。
私の父がこのショックからようやく立ち直った時、祖父の次の言葉を聞いた:「人の全ての作品に対して、賢者は長所を探し、愚者は欠点を探す。」
上に引き合いに出した事柄は、祖父が本物のマエストロだった事を示すに十分だと私は思う。
ほとんど同じ事が父ホセ・ラミレスII世についても言える。
彼は最高の賞を獲得した:1929年のセヴィリア博覧会における金賞、そして後に5名の職人弟子を持った。
私の祖叔父マヌエル・ラミレスは、少なくとも6人の職人弟子を持っていて、サントス・エルナンデスとドミンゴ・エステソが傑出していた。彼はまたヴァイオリン製作技術も修得し、非常に成功したので、マドリード王立音楽院の公式製作家という呼称を獲得した。彼はまた、マドリード王立教会のストラディヴァリウス・クワルテットの修復担当という、名誉と特権に恵まれた。祖叔父は非常に素晴らしいギターを製作していった。それらの1本は真の傑作であり、またマエストロ・セゴビアが初めての海外演奏旅行で使用した最初のギターがマヌエル工房で製作されたものだった事を私は後で知った。もう一人の、疑うことができないマエストロである。
こうしたかけがえのない、そして古き良き職人組織が家族的性格のものだったことを読者にご理解いただこうと思う。
1916年にマヌエルが子供がいないまま他界した時、職人達は”Viuda de Manuel Ramirez”(マヌエル・ラミレス未亡人)というラベルを持つ事で、工房を維持するよう未亡人を説得した。
それには各々の職人がラベルの隅に各人の頭文字をスタンプするという条件がついていた。
私は当時作られたギターをコレクションの一部として所有しているが、その中に”Viuda de Manuel Ramirez”のラベルがあり、サントス・エルナンデスの頭文字”S.H.”が片隅にスタンプされている。
私自身について語る時が来たが、それはあまり気が進む事ではない。とはいえ、私自身が最も良く心得ている主題であるので、私自身の心情や個人的経験を通して得た徒弟制度の知識の全てを披露するとなると、長たらしくなりかねないと危惧する。
1940年、18歳で私は父の工房で徒弟として働き始めた。国内戦争が終結したばかりで、当時工房のスタッフは2名の職人、手伝い1名、塗装職人1名、それに客の交渉に当る1人の販売員で構成されていた。
父のたっての願い、そして古い伝統への固執から、工房オーナーの息子としての私には全くの特典も無かった。
徒弟の艱難をより際立ったものとする為、この伝統はしばしばマエストロの息子達が仕事についた頃に工房間で「交換」する風習があったが、それは父親達の止むに止まれぬ”甘やかし”によって、必要な躾が緩むことのないようにするためだった。しかし私に関しては、これは不可能でもあり不必要でもあった。
我々の工房で時を見て製作にたずさわる徒弟もいたが、私は何時も最も骨が折れる嬉しくない仕事を任された。
二年後、私は最初のギター2本を作ることが出来た。それらの1本の所有者を知っているが、買い戻そうとの試みは無益に終っている。
その頃、3歳年下の弟アルフレドが工房での仕事に就かされた。
しかし、彼が重労働への気概を大して持ち合わせていなかったので、彼の仕事は経営的なもので、それには十分向いていた。
兄は何時も私がとりつかれていた事柄に対し、非常に貴重な精神的サポートをくれた:私が拘泥した事とは、「楽器としてのギターは静止した状態にあり、革命的な変化を要する」というものだった。私が飽きる事無く研究を始めた理由だった。
何らかの指針となり得る科学の書物を、文字通り貪るように読みふけった。
私が製作したギターはそれぞれが新しいデザインのもので、新しい技法や経験に基づいたものだった。
何本かは全くの失敗作で、それ以前の作品とは様式を含めて異なるものだった。
これは、通常ギター製作に費やす時間が2倍や3倍にさえなる事を意味し、当然ながら父からの反対に至るものだった。
とはいえ、父は研究に反対するのではなく、もっと穏当に、常に特定のモデルに基づくことを要求した。
行き着いたのは深刻な対立だった。幸運な事に、私は兄からの強い支持を得た。
兄は父から知性的で分別があると見なされ(まことにその通りだった)、他方私は空想に耽るばか者と思われていた。
私が実行した無数の実験を記述するには、1冊の本を書く事もできるが、それら実験の大多数は全くの失敗に帰した。
ごく僅かのものが何らか有益で、大多数は何ら評価し得るほどの変化ももたらさなかった。
後者のような結果はこの上なく失望させられるものだった。何故なら、次にたどる道筋を何ら示さなかったからだ。
私はむしろ失敗の方を好んだが、それは反対の道筋に進歩できる可能性があったからだ。
私は高度な科学的研鑽を積んだ方々に相談したが、彼等は私が目の前に抱えていた一連の問題の攻略に多大の援助を提供してくれた。彼等おのおのに感謝を表明したい。私は、とりつかれていたとも言えるような精神的状態を”楽しむ”境地にさえ達していた。
こうした艱難すべてに加え、国内戦争と第二次世界大戦の両方の戦後時代がもたらした多大の困苦に耐えねばならなかった。
木材を輸入する手立てはなく、入手可能な僅かな木材は詐欺的に、また粗末な状態で得られたのみで、幸運な場合には古い家具を分解して入手した。
長年、私は倉庫に残っていた木材で事を済ませねばならなかったが、それらは私の祖父や父の職人達が、不適当あるいは使用不可として排除したものだった。
父は繰り返し輸入ライセンスを申請したが、それらが”重大事にあらず”とのスタンプで返された時、換言すれが拒絶された事を意味したのだが、そんな時には文句の数々を聞かないために、父の側から離れるのが最善策だった。
私が所有していた道具類はすべて古い職人達から受け継いだもので、あるものは50年やそれ以上の使用に耐えたものであり、当時それ相応な道具を手に入れるすべが無かった。
鑿、やすり、大目やすり、鉋などは事実上博物館に展示し得るほどに貴重なもので、動力工具類に至っては、私と中世職人の差は、世の中の何処かにそれらが存在しているのを私が事実として知っていたこと位である。
とはいえ、わたしは足踏みで、鉄の弾み車付きの40kgもある帯鋸を所有していた。それは大いに役立ち、右足のヘルニアを代償とするものだったが、私はそれを勲章として抱え続けている。
道具類は足踏みの砥石あるいは手動式変速グラインダで研いだ。そうした仕事で私は何時も職人等を手助けしたもので、かなり背伸びしたがき職人だったようだ。
私の徒弟時代、そして後の職人時代を通して、何物にも勝る苦痛は電気の制限だった:小さくて外に向かって一つの窓しかない薄暗い工房に2時間の電気割り当てしかなかった。来る年も来る年も、油やカーバイドのランプの不十分な灯りを使って行かねばならなかったし、時には蝋燭の灯りで働かねばならなかった。冬に暖かくするとか、夏に涼しく過ごすとかは、空想の世界をさまように等しいもので、今ではおかげで(何時の日かその気になった時)しもやけの生成とか、蒸し風呂の身体的、精神的な効用に関する才気あふれたエッセイを書けるほどになった。何と素晴らしい規制だったことか!
1950年になると、状況はかなり好転した。より受け入れられる材料が得られるようになり、傑作を作ろうという気持ちになった。
2本のギターを作ったが、故意に何らのパーフリングも使用しなかった。
それらの唯一の装飾といえば、自らが作った埋め込みモザイクだったが、線状に伸ばすと各ギターに対して12メートルの長さだった。父がこれらギターを売ってしまわないようにと、私はあらゆる計略を駆使した。
この2本のギターを、別の私のギターと一緒に持っていたかった。その主な理由は、それらが研究を継続する為の参考となり得る突出した特徴を備えたものだったからだった。
父はほとんどのギターを売るのが常だったので、これら特別な2本の販売を止めさせようと、販売不可能となるような条件を設定した:それは少なくとも近傍では聞いた事も見たこともない法外な価格で、スキャンダルの種となった。
しかし、実に残念な事に、それらは1ヶ月以内に売れてしまった。それらの1本はベネズエラへ行ったと思うが、別の1本が何処へ売れたかは知ろうと思わなかった。少なくともそれら1本でも回収できるなら、対価は厭わないだろう! 実際、これらの期間に自らの手で作ったギターの内、取り戻せたのは1946年製作のただ1本にすぎない。
1954年に、ペニシリンによる副作用で弟が死去した。
彼の死は稲妻のように私を打ちのめし、私は慰めようのない孤独に陥った。
この強烈な打撃から回復するには長時間を要した。そのころ重い病を患っていた父は、弟より3年長生きしただけで、更なる追い撃ちとなった。
私は独りぼっちで残され、工房での仕事、事務所の仕事、そして客の対応に時間をさかなくてはならなかった。
仕事を大きく変革する事がどうしても必要となった:もっと現実的になり、長年暮らしてきた雲の上から降りる必要があった。自分の経験の中でプラスとなったものを全てまとめ、基本的なモデルを作り上げた。
それは父が過去に私に忠告したように、その後も実験を継続し得るものであったが、徒弟時代に作るよう教えられた楽器とは全く異なるものとなった。
そして木工関係の工作に経験を持つ優秀な人材を注意深く選び、職人の教育を始めた。
これが達成された迅速さには驚かされた。私は、権威ある見解によれば、純粋に伝統的で真に手本となる工房を経営していたことを後から知った。
マエストロの称号が王室の認可によって得られた時代が過ぎて久しい。
しかし-ただ1人の徒弟の手伝いと、聖ヨセフ(アリマテアのヨセフ)が当時使ったのと同じような道具と手段で17年間作業台で過ごした事、加えて”国家的工芸品”として、労働省、商業会議所から賞を授与され、また私の弟子達の何名かは今や独立して成功していることなどが十分な資格だとしたら、私は工芸職マエストロという伝統的で名誉ある称号を授与される条件を備えているだろうと思う。
にもかかわらず、私の心を喜びで満たしてくれるようなやりかたで、このタイトルを取得できなかった事を心から残念に感じている。
それはいにしえのギルド権威者によってということだが、ギルドが生き生きとした力を持っていた喜ばしい世紀の一つから、何らかの魔法の風によって現在に持ち越されたのなら、何と嬉しいことだろう。
社会学者によれば、職人の道具は、個人的な生産を可能とする種類のものであり、作品が意図している少数で特別な要求をもつ人達によって評価されるような、高い品質を達成するものである。
もしそうではなく、他の異なった要因(”理想”と呼んでおこう)が作品の制作に介入するとすれば、職人の最高の作品は、最も厳密な意味において”すべて”手だけで制作されなくてはならない。
やすり、のみ、筆そして鋸などは科学技術であり、仕事の一定の能率を向上させるこれら道具や他の要素無しで済ますとすれば、自分たちの爪で削り、自分の歯で切り、自分の指で塗装せねばならないだろう。
高度な製作技巧の作品を特徴づける決定的な要因は、作品そのものの品質であり、要約すれば、材料ならびにマエストロによってなされた研究による保証の印であろう。
こうした品質条件を与えるのは、もはやギルドマエストロの会合ではない:それを保証するのは、はるかに厳しく妥協する事のない決定機関で、その判定においては、最高レベルの品質を達成しているか、できればそれを凌駕しなくてはならず、それ以外の要因は評価される事はない。
実は、私の長年の夢は垂直なベルトで駆動する電動鋸を持つことだった。
他のギター製作者と同じく、苦労して手に入れた僅かな木材を借りものの鋸で切らねばならなかった。
その鋸は、すぐれた製材業者から提供されたものだったが、主な目的が大工仕事であり、ガタガタで精度が悪い代物だった。美しい板を何度無駄にした事か!
今は自分の電動鋸を所有している。真に高精度な宝物だと言うべきものである。
木材切断の工程はきわめて重要である。それがギターの音に大きな影響を及ぼすのである。
ギター製作においては、不必要に難しい仕事がいくつもあった。それらの一つが、予め継ぎ合せたギターの腹部と裏板を、それらの正確な寸法を確保するよう、最善の状態に調整する事だった。
この作業は、今では単純な回転式サンダーで行える。
パーフリングやロゼットを埋め込むための、ギターの端やサウンドホール周囲の溝切りも、同様に難しい作業である。
この極めて繊細で困難な作業も、小さい電動工具の操作により、ノミによる仕上げを残すだけとなる。指板上に残った荒い面は、小さいトリマーで平坦とし、後は複雑な仕上げを手作業で実行すればよい。
足踏み式ではなく電気で動く幾つかの丸鋸を別にすれば、これが私が所有する全ての”機械”である。
私がここで書き記している事は容易に確かめられる。
なぜなら、私の仕事場を訪れたいとの要請があれば、喜んで応じる積もりだから。(どなたか賭けに勝ちたいと思われますか?)
この”巨大な”工業化にもかかわらず、可能な限り古い職人ギルドの方式に従うよう続けてきた。
第一級職人の称号は、古い時代のマエストロに相当するが、私の工房の職人は以下の条件で得られる:必要な要請をした後(全てが口頭で行なわれ、書類はない)、志願者は4本のギターを提出しなければならないが、それらの中に微小な欠点の一つも私が見つけてはならない。
欠点とは、楽器としてのギターの音とか演奏の容易さを意味しない。
試験に受かるためには、それら側面はとっくに克服されているのが当然だからである。
うっかり見落とした引っかき傷とか、ごく小さい線の歪みといったもの、それらは私が落第とするに十分で、再度試験が必要となる。
しかし、私が”貴方は今や第一級職人です”と言ったとき、繰り返すが書面でなされることはなく、私が確信をもって評価していることを誰もが知っているので、その返事として表される純粋で高貴な誇りを想うことは、なにか古い世界の趣を湛えて、私のこの上ない喜びである。
古き良き時代の工房の手法全てに従い、職人達は些細な点に至るまで正確に私の指図を守る。
彼等の作業は、私の弟子のうちで最も優れた「助手」によって細部に至るまで監督される。精度の要求は、しばしば1/10ミリメートル単位が必要であって、木を相手にしている時には極めて困難であり、極度の注意が求められる。
工房の下級職人は、可能な限りの均一性を確保するため、上級職人らに半手工品部品を提供する。
楽器が完成すると3種の検査を通過しなければならないが、最も嬉しくないのが私自身による検査である。
この工房を立ち上げて以来、気紛れな個人的動機でこのルールに反した事は全くないが、恐らくそれは職人の言葉に耳を傾け、論議して分析し、そして示唆を与える私の性格によるのだろう。
時たま起こったのは、いくつかの過ちが犯され、それがもとで工房中に騒動が持ちあがり、ありとあらゆる批判があびせられることだった。
こうした事例のいくつかにおいては、失策の張本人は数日間工房に仕事に来ることはなく、あるいは自宅に引き篭るが、それは後悔の念にかられてのことだったり、仕事仲間からの冷かしに我慢できなくてのことだった。
これら全てが意味するのは、ギターへの愛着と全身全霊の奉仕であり、古き良き時代に花開いた理想のなごりだが、残念ながら今では痕跡ほどしか残っていない。
私は”純粋な人”を何ものにも増して尊敬する。
というのは、私自身がこの敬うべき熱心さで鼓舞されているからである。
しかし、たった一人で仕事に打ち込む製作家と、全ての個性が尊重され職人気質が刻印された職人工房とは、同程度に純粋であると思う。
フロレンスの”サンタ・マリア・ディ・フィオリ”の有名なドームの煉瓦が、自身の手で積まれたものではないとして、ブルネレッチのような人物を批判するとか、疑うとかの過剰反応に陥らぬよう注意せねばならない。
製作者の名を冠するのは芸術的コンセプトに依存するもので、仕事自体は無名の人によるものとしても、それで製作者に仕事の達成について功績を差し引くべきでないということである。
公平であろうとなかろうと、これが真実の事態であり、何世紀にもおよんで世界中で、そのように確立され容認されてきたのである。そのように受け入れられて来た事には何らかの強固な理由があるに違いなく、その理由が何かを私が分析を試みる事はあるまい。
以下の事例が、この話題に関してなされ得る多くの考察点を明確にするだろう:20世紀に入ると、工場生産品の値段に対する職人仕事のコスト増加が顕著となり、それが次第に大きくなり、ギターの製作はこの新しい事態のために特に影響を受けた。将来は並外れた芸術家になる潜在能力を持った初心者あるいは単なる愛好家にとって、打ち込んだ真面目な練習を継続できない状況では、高価な手工品ギターを買うことが大きな問題となった(今でもそうである)。
ギターに対する知識は広まったが、その一部は工場生産品に負うものだった。それらは私から見れば品質の低いものではあったが、愛好家が安価な楽器を入手する機会を提供した。
それは少なくとも出発点として役立ち、僅少な愛好家の一部は、いかに小人数であったとしても、いずれは楽器への愛情をもったり、真の専門的に楽器に取り組むようになり、遅かれ早かれ高品質の手工ギターを手に入れようと努めるだろう。
私の祖父はこの状況を先見の明で把握し、多少の技術的助言と若干の資金的援助をして、こうした様式の製作に関わるようになった。
この新しいビジネスに乗り出すにあったって、祖父は当時販売されていた製品より、弦を含めて、単なる”箱”よりは威厳を備えた製品を出荷できる生産工場の協力を求めた。
更に、それら楽器が所有者達を失望させるのではなく、彼等に学ぶ動機を与えうるものとするため、多少の仕上げ作業と必要な修正を自分の工房で行った。
というのは、楽器としてのギターに必要な細かい作業に注意を払わない製造者によって扱われると、今でも同じ事が起こり続けているとおりだが、不幸な事に所有者を失望させる事態が起こるからだった。
ギターの取り扱いについて何らの考えも持たないディーラーについても全く同じで、手元にあるどんなギターでも、委託されたままの状態で経験の無い客に売り、後になると如何なる責任も取りたくはないのだ。
なぜなら、ほとんどの場合、職人が容易に解決し得るような問題も、彼等は見つける能力を持たないからだ。
当初、祖父はこれら工場生産のギターには何もラベルも貼らなかった。そうした”代物”に、どうして自分の名を冠することができようか?
しかし、当然だがこれが問題を引き起こした。
調整や修理をしたり、時には悪意で成された不満に満足に対処するため、遅かれ早かれ、職人工房が、ディーラーがあてにする最終的な責任の所在となったからだった。そんな訳で、それらギターに責任を取り、また当面の問題を解決するのに、祖父にはそれらギターの出所を明かす以外の方策が無かった。祖父は簡便で平凡なラベルを考案した(通し番号と署名がついた、自分の工房で製作したギターに使用するものとは似ても似つかぬもの)。
それらのラベルに、私は最近”GUITARRA DE ESTUDIO”(練習用ギター)という名称を追加した。
誰も偽作と疑えぬよう、より明確にし混同を避けるためである。
こうした種類のギターの大量生産を目的とした共同起業を、私は国内外から多数提案された。
その立ち上げと機械化への強固な資金提供の申し出もあった。
決まって私はこうした提案を拒絶せねばならなかったが、私にはそうしたギターの生産はできないとの、正直にそして信念にもとづくものだった。私の専門家としての修練がそうさせないし、そうした共同生産は生産されるギターを自ら管理せざるを得なくさせるだろう。
1ヶ月当り何千本ものギター生産を、如何にして私の流儀でコントロールできようか?
そんな生産に必要な木の事を考えただけで、それらが適切に経年させられねばならないので、私の頭はめまいがするのだ。
数年前、私はマドリード近郊の非常に乾燥した土地に、およそ900平方メートルの1階建てのビルを購入し、自分のギターに使うための数トンに及ぶ、異なったタイプの木を保管している。
意図した通りの役割を果たすためには、この木の冬目は完璧に固化されなけらばならない。
その役割は、縦方向の振動の伝達である。冬目は樹脂を貯蔵する組織で、樹脂は実際上石質化されねばならない。
いわゆる”赤杉”と中央ヨーロッパのスプルースを合わせて、私はおよそ20,000セットの表面板を保有し、消費するたびに補充している。
現在使用している表面板の一部は、25年間以上貯蔵してきたもので、今買入れている表面板がギターに変わるのを見るだけ長生きできるとはとても思わない。
ある種の大量生産業者がどのように木を経年させるのか、私には理解しがたい。適切に木を経年させるのは、疑い無く賞賛に値する作業である。
伝統的な職人工房は現在も設置されており、少なくともスペインにおいては、その純粋さをすべて維持して生き続けている事を記述したいという私の気持ちから、若干わき道に逸れてしまった事を認めなくてはならない。
これらの工房は、公的支援や、過去の何世紀かには実際に機能していた組織からの支援なしに、また妬みや悪意に満ちた批判にもかかわらず、維持されているのである。
私は、ヴァイオリンのクレモナ派のような、素晴らしい工房へ敬意を払うのを忘れる事無く記述してきた。
この項を終えるにあたり、奇妙とも思える様な計算をしておくが、それは読者の理解を深めることになると思う。
42年間にわたって、自身の手、あるいは自分の工房でギターを作ってきた。これら年月の間に、私は18,000本のギターを作ったが、年間平均430本となる。
もしも、徒弟とかアシスタントからの手助けだけで、年間30本のペースで(フルスピードでの製作を意味する)それらを自分の手で作ったとしたら、今日までに高々1,260本しか作れなかっただろう。上に述べた18,000本は、注文を受けて既に販売してしまったので、残っている要求量を満たすには、16,740本不足する事となってしまう。
これが意味する事は、私がたった一人で仕事をし、今誰かがたまたま1本のギターを注文したとすると、発送が2542年近くになると告げねばならない。
今から558年も先の事である。注文をし、こんな答えを貰うとしたら、注文者がどんな顔をするか容易に想像ができよう。
さて、現実に立ち返り、単なる数字を忘れることにすれば、上記の事実が意味する論理的帰結として、私はあまり多くの注文を受けないことになろう。
しかし、もっともっと”穏当な”発送日-例えば今日から60年後”-を提示すれば、私にとっては十分だろう。
これは、遠い将来お孫さんの一人がギターに献身するかも知れぬとして、買う可能性のある人が熟慮して注文するかどうかをお決めになれる日付である。
価格については、むしろ何も申し上げない方が良いだろう。
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