生まれた時、すでにギターというものが常に近い環境にあった私にとってギターはあって当たり前のもので、小さい頃の私は自分の傍にいつもあるギターというものについて特に深く考えることはなかった。
小学校の頃は頻繁に父の仕事場に遊びに行くことも多く、たまにヘッドの穴あけなど簡単な仕事もさせてもらっていた。
鈍い私はいつも狭い仕事場でひたすらにギターを作っている父を見ても、いまいち好奇心をくすぐられるようなことはなかったように思う。
父からはギターに関してのことよりも、師であり私の名前の元にまでなったマエストロ、アントニオ・マリンとその工房についての話を聞く機会の方が多かった。
人柄のよさに技術の高さ、兄弟子であり親友のホセ・マリンと何をして遊んだかなど、グラナダにいた頃のことについて話す父の目はいつも輝いていた。
事あるごとに嬉しそうにそんな話をされて気にならないわけがない。その頃から"アントニオ・マリン"という人は常になんとなく頭の中にあり、自分の名前を書いたり、自己紹介をする度により一層意識する存在になっていた。
アルベルト・ネジメ アントニオ・マリン ホセ・マリン ホセ・ゴンザレス
中学校から大学まで寮生活を送ることになり、父が近くでギターを作っているという環境でなくなってからギター製作というものがどういう仕事か、そしてその面白さなどが少しずつ見えていった気がする。
といっても中~高の私はテニスに夢中で将来ギター製作を仕事にすることは全く頭になく、別の色々な職業を夢見ていた。
高校1年の時に初めての渡西でバルセロナ、2年の時にバレンシアに、どちらもテニスのサマースクールで行かせてもらうことができ二度目のサマースクールの後、父と現地で合流しついに初めてのグラナダへ向かった。
小さい頃から何度も話に聞いたマエストロ。同じ名前を付けられた私はまるで"ご本人登場"のような気分で工房へ向かったのを覚えている。
ネジメ・マリン アントニオ・マリン ホセ・マリン ホセ・ゴンザレス
シエラネバダを背にした緩やかで少し長い坂を上り工房に入るとすぐにマエストロが迎えてくれた。
初めて会ったその人はまるで"久しぶりに再会したおじいちゃん"のような、人にプレッシャーを与えない不思議な雰囲気を持っていて、父から聞いていた通りの人物だった。
その後工房の皆と一緒に食事に行き、師匠との再会に舞い上がった父がベロベロに酔っぱらっているのを見て父がどれだけこの人たちを尊敬し、信頼を置いているのかが見て取れた。
手工製作家としてデビューし、アウラではリペアスタッフとして働いている。
大学生の頃、まだ進路を決めていなかった私はなんとなくギターを修理することにハマっていた。
といっても小さいころから不器用で、修理について教えられていたわけでもないのでただ友達の壊れたエレキギターやアコースティックギターを音が出る状態にしたり、少しだけ改造などするだけの拙いものだったが小さい頃父の仕事場で遊んだ経験が少し繋がったように思い、このころからギター製作という職業にどんどん惹かれていった。
卒業後少しして父に弟子入りすることになる。一番初めの仕事はセラック塗装。しばらくの間ひたすらに塗装の練習をし、いよいよ一本目の製作に入るわけだがここでも基本的には父がマエストロから教わった通りに、父なりの改善も加えつつ修行は進んでいく。
四苦八苦しながらなんとか一本目を仕上げたが、小さい時から近くで見ていたはずの簡単な作業のひとつひとつにいくつも大切な要素が含まれていることを痛感すると共に材料や楽器の性質を考え、改善に改善を重ねてきた先人たちの連なりを感じた。
2012年の秋から冬にかけて、修行の為スペインへ渡る。
まだ暑さの残るグラナダに到着し、半ば興奮気味に暑さと疲れで引き攣った足も気にせず工房へ向かった。
坂道を上り工房の扉をあけると十年前と同じようにマエストロ アントニオ・マリンがいた。高校生の時の"おじいちゃん気分"とは違い師匠として向かい合っている事に、高校生当時にはない緊張感があったがマエストロは温かく迎えてくれた。
共に工房で仕事をしている甥のホセ・マリン・プラスエロ、ホセ・ゴンザレス・ロペス、そしてマエストロの孫であるフアン・アントニオ・マリンとも挨拶を交わし、そこで「ここで仕事をさせてください」と拙いスペイン語で伝え、グラナダでの修業が始また。
初めの一週間、邪魔だったとは思うがただひたすらに皆がしている仕事を観察した。マエストロの工房では頻繁に作り方が変わる。
その時々で良いと思う工夫を常に考え、それでいてとても合理的なものになっている。その為現在父の工房でしている工程と違う部分も多く、その度「これはなに?」と聞き、その発想に驚いてばかりいた。
そして道具の使い方、木の加工の仕方、すべてが手早く繊細でその格好良さに惚れ込むのに時間はかからなかった。
丁度一週間経ったころ、いつも通り仕事を見ているとフアンアントニオに呼ばれ、その時彼がやっていた作業を「やってみるか?」と勧めてくれた。直前にマエストロが彼に話しかけ、さりげなく自分の作業台に戻って行ったところをみると恐らくはその話をしてくれていたのだと思うが、それから毎日他の色々な作業も手伝わせてもらえるようになり、とてもうれしかったのを覚えている。
毎日朝から晩まで工房に通っていたわけだが四人の人柄は誰もが素晴らしく、スペインでの長い滞在期間を過ごす上でとても大きな支えとなった。マエストロについては父から何度も聞かされてきたが実際に仕事を共にさせてもらって直にその人柄に触れることができたことは何よりの修行になったと思う。高齢になった現在も日曜日以外は休まず仕事をして、時に皆で冗談を言って笑いながらも無駄なく作業をしながら色んなことに気を配るその姿は父の話に聞いていたイメージを遙かに超えていた。
ある日ホセ・マリンの楽器を持ったお客さんが本人に会いに工房に訪れた時、弟子であるホセ・マリンの顔を立てるために工房の奥の方に引っこんでいたことがあった。自然にやっていることなのかもしれないがそういう心配りのひとつひとつ、お互いを尊重し合う姿勢が人望の厚さ、延いては楽器の質にも繋がってくるものなのだと思う。
そんなエピソードを出せばキリがないがホセ・マリンもホセ・ゴンザレスもフアンアントニオも、とにかくスペイン語もまともに話せない私の面倒を懲りずにいつも見てくれた。
私が工房にいる間は、それぞれが作っているギターのパーツ作りや塗装前の目止めなどを主に手伝わせてもらっていたのだが、四人とも冗談を言いながら丁寧に教えてくれ、「ちゃんと食べてるか?」「家で不便なことはないか?」など身の回りの心配もしてくれる。特に歳が近いフアンアントニオとはよく昼食にケバブを食べに行ったり彼の家でゲームをしたり、ほとんど下宿先と工房との往復だけだった私を色々と連れ出してくれ、さらに深くグラナダの空気を感じることができた。
グラナダの街には工房がたくさんある。アントニオ・マリンの工房から数分かからないところにトーマス・ホルト・アンダーソンとジョン・レイの工房が隣り合ってあり、大通りの方まで下ればアントニオ・ラジャ・パルドの工房、レジェス・カトリコス通りを少し入ればパコ・サンチャゴ・マリンの工房と、その他にも楽器店の中に工房がある所など多数が集まっていて、少し歩けば工房を見つけられる。ギターを製作する者には聖地と言ってもいい場所で、日本のオタクでいうところの秋葉原のような場所である。
そんなこの地で元々暮らしている人達からすれば、ギターは有って当然の物で特別意識をするようなものではないと思う。それがグラナダ滞在中にふと、実家でギターが近くにいつでもある。あって当たり前で深く意識をしていなかった私の小さい頃の感覚と似ている様に思い、あって当たり前の物を、少し踏み込んで意識することがこれから私がギターを作っていく上で重要な感覚だと、その時感じた。
数ヶ月の修行も気づけばあっという間に過ぎていった。朝から晩までギターのことを考え皆で 冗談を言って笑い、昼はいろんなバルに行き昼食をとり土曜日は一人工房で仕事をしているマエストロと少し話をする。それがすでに日常になっていた。帰国する数日前に渡西してきた父と合流し、工房の皆と私の好きな工房の扉の内側から望むシエラネバダと目の前の壁に描かれている絵を惜しみつつ「またすぐに」と別れを告げ、来た時の何倍もの想いを以てこの度の修行は終わりを迎えた。
マエストロがブーシェより受け継ぎ、工房の弟子達に伝え、さらに自らの改善を続けて来たこと。その一端さえもまだまだ私は受け取れきれていないが、マエストロが何を考え、そして様々な状況で彼ならどのようにするのかを常に想いながら自らの新しい答えに昇華させていくことが、私の守りたい伝統の形だと思う。
時折、修理などで私が小さい頃の年代に作られた父やマエストロの楽器を預かることがある。観察すると当時父やマエストロがどのようなことを考えて楽器を作っていたのか、私自身の記憶とともに垣間見ることができる。これから伝統を守り進めていく上で、どうしても勘違いをしたまま進んでしまうこともあるだろうし、先が見えなくなり足が止まることもあるかもしれない。そういう時はこれらの楽器が自分を見つめなおす道標になることだろうと思う。