“Things about the Guitar”
佐藤忠夫 鴫原敦 共訳 本山清久 翻訳協力
本抄訳は、版権所有者であるSoneto社のMerchol Rodriguez氏より、著書紹介を目的として、 当ホームページ上のみでの一部掲載を条件に特別許可を得たものです。 このため転載、引用等は固くお断り致します。 なお本書は「ラミレスが語るギターの世界」(荒井貿易出版部)として日本語版が出版されました。
[序文]
この小冊子は、過去数年間における私の小文をまとめたものである。
それらの大半は色々な国の雑誌からの要請、ギターに関する本の著者からの求めに答えて書いたもので、中には大学の学位論文を完成させたり修正するためのものも含まれている。
私にとって、著述は特に魅力のある仕事とは言えないが、私の責務を出来る限り果たすよう務めてきた。
それは、ギターに関する想像以上の無知、それがギターの取り扱いにもたらす過ちについて特に動機づけられたからで、適切な保管、ギターの歴史の過去と現在、良い楽器の評価の仕方などについて書いてきた。
私は擦弦楽器、特にヴァイオリンについて、多数の製作家によって書かれた膨大な資料があるのを常々羨ましいと感じてきた。
それらは、長年に及ぶ経験について書かれたもの、専門的著者たちへの目録、真正証明書、評価などを忠実に提供したものであり、真摯な研究の助けとなるものである。
不幸な事に、ギターにはこれらの資料が無い。
ギターの製作・修理についての著作を私は未だ知らない。もしあるのなら、すでに知られているはずである。
この小冊子は、どちらかといえばギターの取り扱いと保管を主題としているが、これがヴァイオリンに関する膨大な資料と類似の資料の始まりとなるよう希望する。
というのは、今日までにギターについて書かれたものは、大半がコレクションとか、あまり正確でない歴史などで、補修に関するものは無いに等しい。しかし少なくともそれらは、私が追求しようと試みている事柄への序章となるものであり、何人かのギター愛好家による賞賛に値する努力と言える。
これらの著作を出版するのは、私に関して出回っている不愉快な風評を否定するためではなく、そのような目的のために機会を空費するつもりはない。
それら風評の一例は私が既に故人だというもので、もしそうなら、私は書く煩わしさなどと無縁の幽霊ということになる。
1990年11月14日の今日、私は68歳で、これらを書いている事により健在であることを証明する。
手作りでなくても質の高い仕事が可能であるとでも言うかのように、私のギターは機械で作られたものだと断言する人達もいる。
木というものは不均質、不安定、そして大いにてこずらせる材料であり、機械がいかに完璧でも、高品質の楽器を製作する上で含まれる無数の要因に適応するのは不可能である。そんな訳で、大量生産の機械製ギターのどれ一つとして、手工品が生む音量と音質を達成することはあり得ない。
それはプロシャの大軍勢に”白鳥の湖”を優雅に踊ることを期待するようなものだ。
私が幾つかの機械を使うのは本当だが、それは質や高い技能を必要としない初期の荒い工程に対してのみで、その他の作業は全て手仕事によるものである。
私の使用人は、起こり得る全ての事例を勘案した私の厳密な基準に基づいて作業する。そして何か問題が起きたときは私が対応している。
最近、私の指は若干硬くなっており、しばしば店頭での仕事に差し支えるため、この重要な仕事を息子のホセ・ラミレスIV世に委ねてきている。
息子は私が教え込んだ事柄に加え、自身の経験を重ねているので、私と同じ程度の技量を持っている。
私は、私自身に関する事や私の仕事について、ここに記述した全ての事柄の根拠を示すことができるし、必要とあれば、反論し得ない証拠として、風評、嘘、そして私についての悪口、ある不快なギター製作家、それらをことごとく否定する事ができる。今に至るまで、私はそれらに何の注目も払ってこなかった。
これまでに、ギターの歴史について書くよう再三求められてきた。部分的には書いてきたが、私の見解では、この楽器の誕生から詳細な歴史を書くのは不可能である。そうした歴史の基礎となるべき事柄は、大いに疑わしい推論や仮説に過ぎない。
ビセンテ・エスピネルが登場した16世紀以降になって始めて、信憑性が確認できるようになったのである。
私の考えでは、ギターはその他の弦楽器と時を同じくして生まれたもので、新石器時代にある人間がたまたま中空の入れ物に弓の綱を結び、偶然に綱を振動させた。
弓を射たとき、男はいつもの風音が増幅され、しかも耳に心地よい音を発した事に驚いた。
恐らく、最初の弦楽器はそうした出来事で誕生した。
同じような音楽の天才が、弓の半分を胴体の側面に繋ぎ、一本かそれ以上のぴんと張った弦を胴体の中央部に結びつけて、ハープを発明した。同じような事が、スペイン北部の洞穴やメソポタミアやブラックフォレスト、そしてその他の場所でも、ほぼ時を同じくして起こった可能性がある。
次に起きた事は、弦巻のついたネックを胴体に取り付けたことに違いない。弦は胴体の中心に付けた駒に結びつけられた。
これらの弦を違った場所で押さえ、その長さを調節して弾いたとき、それらは異なった音を発し、最初のギターと最初のギタリストが誕生した事になる。残念ながら、この発明が起こった時期を5千年から7千年の時限内で特定できていないし、その地域も特定できない。しかしながら、最も原始的な胴体は亀の甲羅、空洞のある木の幹、半分に割った瓢箪など、そしてネックは単なる棒、共鳴板は薄い獣皮だったと仮定する事ができよう。これらの”楽器”はむしろ打楽器として作られたと思われるが、掻き鳴らすようにも意図されたに違いなく、それらは原始的な文明世界では今日まで残っている。
こうした進化の最終時期、多分それは青銅時代だが、胴体は既に薄い木板で作られるようになった。
ネックは完成され、このような構造をもつ楽器がギリシャ、エジプト、そして中近東の浮き彫り、絵、壁画、壷絵に現われ始めたが、それらは背景をなすのみで、それらの詳細を研究するとか進化をたどるのは不可能である。
ある賢い”製作家”が、丸い穴を持った楕円形の胴体が良く鳴るのを発見し、別の人が2個の胴を繋いだ方が更に良く鳴ると確信し、窪みを持たせ、小さい方の胴に響穴を、そうして大きい胴にブリッジを付けたのだろう。
紀元前5世紀のアッシリアに、少なくとも判定可能な限り、こうした特徴を備えた浮き彫りが存在する。
歴史を通して、これが現在の真正のギターに最も近似したものだが、この腰部を持つ胴は半分に割った瓢箪で作ったものだったと推定できる。ともかく、この小さいモデルは大流行したものではなく、少なくとも広い地域で使用されることはなかったに違いない。なぜなら、何世紀も後にならないと同じ物がどこにも出現していないからである。
以上ことが歴史に類するものでないのは明白だ。全てが類推とか仮説に過ぎないが、少なくとも流布している”ギターの物語”に対しては多大の信頼性を与えるもので、信頼性に足るデータというよりは善意を含むものと認識する。原初の正確な名前すら知られていない:ツィター、シタラ、等などである。ギターの歴史は、ギターそのものと同様に神秘に満ちている。
確信をもって言える事のひとつは、アラブ人がギターをスペインに持ち込んだとする話が全くの虚偽だということである。アラブの最も重要な楽器はリュート、あるいはルース(アラブ名はアル・ウド)で、大きい楕円形の胴体、空洞、および頭部がほとんど真っ直ぐに付いた短いネックを持ち、1弦を除いて複弦の8あるいはそれ以上のコースを持つ。より初期の楽器は、もっと弦が少なかったと考えられる。
この楽器は真のアラブの楽器でない。それは紀元1世紀にアルメニアのキリスト教社会で生まれたもので、アラブ民族がそれを採用し、今でもアラブ音楽の最も重要な楽器である。
しかし、ギターや、それに類似したものは用いられておらず、もし彼らが原始的なものであれ、ギターをスペインに持ち込んだのなら、故国に帰ってからもなんらかの形でそれを保存したに違いない。
それにひきかえ、リュートはヨーロッパ全域に広まった。それらはある面でスペイン系アラブ人がヨーロッパ大陸で強い文化的影響を及ぼしたこと、またある面では十字軍がそれを持ち帰ったことに理由がある。
スペインにおいては、この楽器は適切に保存されなかったが、おそらくアラブへの敵愾心のためだろう。
リュートという名称は、平坦な裏、頭部がほとんど真っ直ぐに連結されたネック、6本の金属複弦を持つ楽器を指す。
この楽器の職人を意味する”リューデロ”という単語は、Royal Academy of the Spanish Languageには載っていない。
これは殆ど注目が払われなかった事を意味していると思われる。しかし、リュートあるいはルートを作る人を意味する”ルシェール(リューティエ)”という単語は、木製の弦楽器の修理・製作者を指すものとして世界中で知られている。
ギターの話にもどるが、中世になるとヨーロッパ中の寺院やその他のロマネスク、ゴシック建築の数多くの浮き彫り、あるいは写本の細密画から豊富な資料が得られる。
それらのギターは細長い楕円形の胴体、1個あるいはそれ以上のサウンドホール、そしてかなり長いネックを持つものだった。
腰部の窪みは明確でなく、それが当時のギターの特徴であった。
宮廷製作家の権威が確立される以前に、材料から”ビウェラ”(小さなギター)を製作する方法を知っていた人にナイトの称号を授与した13世紀のアルフォンソX世(賢帝)の法令がなかったとしたら、私は当時腰部の窪みはなかったのではないかと推測する。
とはいえ、貴族の”ビウェラ”は、わずかな腰部窪みを持っていた。ギターは”ビウェラ”を単純化したものから生まれたと益々確信するようになった。
“ビウエラ”は複弦楽器のため弾きづらいので、4本の弦を持ち、歌の伴奏のために掻き鳴らせる小さくて弾きやすく、受け入れられやすい楽器にしたのだろう。
もはや、事を複雑にする理由はない。こうした原始的なギターは今日においても存在していて、アラゴンの”レキント”、カナリア諸島の”ティンプル”、ベネズエラの”クアトロ”(4弦ギター)、ハワイのウクレレ、そして中央ヨーロッパの同種の楽器である。
現今のギターは16世紀の終わりに、非凡だが同時にスペインの黄金時代に典型的な一人の男によって考案された。彼は冒険家、神秘家、詩人、武士、享楽的女道楽家、音楽家で作家であり、限界に挑戦する人物だった。彼の名はビセンテ・エスピネルで、1550年ロンダ(マラガ)で生まれた。その冒険の数々を振り返って見るのは興味深い。
彼はサラマンカ大学で学び、ギター(4弦しか持っていなかった)と詩をこよなく愛した。素晴らしい歌の数々を作曲し、その活力と、外交的で享楽的性格、そして悪戯好きと相俟って、その町の人気者となった。彼は宗教裁判においてフライ・ルイス・デ・レオンを擁護する学生決起で活躍したが、それが大学の2年間の閉鎖に至った事を考えると、大騒動だったに違いない。
彼はギタリストとして生計を立て、4弦ギターが音楽的に優れていることを認めていたが、それは主に爪弾き用に考案されたものであり、かき鳴らしに向かなかったため、彼は5番目の弦を追加し、後にそれについて記録に残そうとした。
彼はセビリアに移住し、来る日も来る日も愉快に過ごしたが、少しその度が過ぎた。突然神秘体験に襲われ、全てを悔い改めて司祭となり、後に生誕地のロンダで司祭職を得た。
しかし定住生活は性に合わず、しばらくの間レモス伯爵の従者を務めた後、イタリアに旅立ち、ミランの統治者メディナ-シドニア公爵に仕えた。
その地で輝かしく音楽的技量を完成させ、イタリア中を旅したが、そうした冒険の果てにセルバンテス同様、アルジェリアの海賊の虜となった。
しかし、セルバンテスよりは幸運なことに、アンドレア・ドリア大将のジェノバ艦隊により即時に解放された。彼は歌の数々で有名だったので、水兵達が捕虜の中から直ちに見つけ出し、もてなした。
相変わらず落ち着くことなく、彼はフランドル地方へ行き、アレハンドロ・ファルネシオの軍隊に入隊し、兵士、ギタリストそして詩人として冒険の頂点に達していたに違いない。彼は常にふたつの選択肢を持っていたので、自らをうまく守り、ほとんど傷めつけられることがなかった。カトリック神父だったので結婚はできなかったが、それが彼を失望させたとしても、彼には常に剣があった。
彼はマドリードに帰り、アルカラ・デ・エナーレス大学で修士の学位を取得した。過去の神秘主義が再び身をもたげ、ふたたび神父の仕事をし、マドリードで司祭の職に就いた。外遊の間、彼はロンダの司祭職を保持していた。ロンダの宗教仲間達は、彼の乱れた享楽生活に憤慨し、その職からの追放を試みたが成功せず、奇妙な事に今日でも彼の像がそこに存在している。
魅力、音楽そして詩で彼は全ての人達の寵愛を得、アルバ、レルマそしてメディーナ-シドニアの公爵達、レモン候らの保護を受けた。
彼は有名な小説”従士マルコス・デ・オブレゴンの生涯”を書いたが、その大部分は自伝との仮説があり、当時の最も傑出した小説と考えられている。
加えて、他の小説や重要な文学作品も加えられねばならない。詩において、彼は”デシマ”(10行の8音節連)を考案した。
これは一種の韻律であり、直ちに大成功を治め、カルデロン・デ・バルカが直ちにそれを取り入れた。
同年代の重要な作家は皆、彼との親交を請い求めた。
セルバンテスは彼を”賞賛に値する友”と呼び、ロペ・デ・ヴェガはこのギタリストに感銘を受け、”比べ様のない技量”について語り、彼を”音楽の父”と呼んだ。ケベドやゴンゴーラも誠実な友人だった。
彼に敬意を表し、この”デシマ”は”エスピネラ”と呼ばれた。要するに、彼は芸術家、天使そして俗物の性格を程よく兼ね備えた特異な人物である。
この5弦ギターは4弦ギターより若干大きな胴体を持っていたに違いなく、追加弦のためのスペースとして、より広い指板を持っていただろう。
この弦は、今日我々が言う第5弦とは別のものだった。弾くことによってエスピネルに広範な音楽表現を許したのは、今日の第1弦だった。当時の4弦ギターの標準的なチューニングは、A,D,G,Bだったが、5番目の弦E(実際には第1弦)を収容するよう大きくされた。こうしてその演奏方法が根本的に変わり、結果として音楽的に向上したことから、私はこれが真のギターの誕生と考えている。エスピネルと彼が作ったギターを知る術がないのは実に残念である。
エスピネルは誠に気がかりだが、ギターの歴史を続けよう。17-18世紀を通して、ギターは5弦が維持されたが、それはほとんど常に複弦だった。恐らく”ビウェラ”を奏でるのと同じテクニックを使うため、あるいは複弦の方がより豊かな響きが得られると信じられていたためと考えられる。
1674年にはガスパル・サンスがギターの奏法を確立し、1679年に彼の極めて貴重な作品も含めて出版している。
しかし、当時の資料はやはり僅少である。私はこのギター教本の初版本(恐らく唯一のもの)を所有しており、それはギターが当時真摯に扱われていた事の証拠である。
ルイス・ミラン、カベソンらのギター音楽がこの頃に作られた。
最も注目すべきはスペイン以外に、太陽王ルイ14世のフランス王室のロベルト・ビゼー等のギター作曲家が現れたことである。
これはギターの改良が始まった頃の、この楽器の一般性を的確に示している。
18世紀の終わりに第6弦が追加されたと推定されているが、誰が発案したかは分かっていない。
それが司祭で優れた音楽家だったバシリオ神父だったという人もいるが、それを支持する確かなデータは無い。徹頭徹尾、ギターという楽器はは神秘性を示し続ける。
単弦が再度採用され、6番目の弦は第1弦の2オクターブ低音のEで、真の6弦となり、標準的チューニングがE, A, D, G, B, Eとなった。
それらのギターは比較的大きいホールを相手にせねばならなかったので、19世紀終わりに出現したアグアド、ジュリアーニ、フェルナンド・ソルらのマエストロやコンサート演奏家達は、当時の製作家達に音量のある楽器を製作するよう圧力を及ぼし始め、カラーセド、ジョレンテ、パノルモ等を使した。
次に登場したのがトーレスで、19世紀の中葉に現在のギターの基礎を確立した。
これを基としてギターは進化を続けており、マドリード派はその発展で重要な役割を果たしている。1
8世紀にヴァイオリンが到達したように、ギターが完璧な楽器となるにはまだまだ遠い道のりを要すると思われる。
読者諸氏が忍耐強く本書を読み続けてくださるなら、私の試みと苦心についてお話ししたいと思う。
各所で同じ事を語るのに気づかれるだろうが、それは以前に書いた記事を再編したくなかったからである。
[赤杉(THUJA PLICATA)]
この数年間、プロ、アマを問わず演奏家の間で、弦長、材料に用いる木材、完璧なチューニングの方法など、ギターの諸側面に関する関心の高まりを私は注視して来た。
こうした関心は繰り返し商業雑誌に取上げられたが、そうした出版物あるいは個人的な見解の両面で、かなり不確実な点があるのを確認せざるを得なかった。
もちろん、ギターの問題点に関するこうした関心の高まりは、これまでになくこの楽器への注目が払われているわけであり、私にとっておおいに喜ばしい事である。
最も意見が分かれ、対立する論点の一つは、現在ギターの表面板に最も広く用いられている木材のうち、何が音色と効果に影響をおよぼすかという点である。
それはレッド・ウェスターン・シダー、あるいはレッド・パシフィック・シダーと呼ばれるもので、その学名は”Thuja Plicata”で、次に説明するように杉とは何らの類似性も関連性も無い。
このことについて持っている知識を、私の言葉を通して公衆一般にお伝えする機会を持てたのは、非常に喜ばしいことであり、短い経緯から始めることにしたい。
20年ほど前の事だが、私は中米杉(Central-American cedar: Cedrela Odoratta)を入手するのに大いに苦労していた。
それは300年以上もギターのネックを作るために使われてきた材料だった。ある日のこと、私は近所の木材商でなにか(何だったか憶えていない)を買ってくるよう若い雇用人を遣いに出した。
帰った若者は、そこで杉材を売っていたと語った。この言葉をあまり深く考えなかったが、ともかく自分で確かめる事に決めた。そこでこの若者にサンプルを持ち帰るよう言いつけたが、サンプルを手にした時、私は自分の目を疑った。
ギター、ヴァイオリン等の表面板に使われる中南米材は、その年輪が明瞭で、年輪の間の層が日焼けした色合いを持ち、年輪幅が均等で狭すぎも広すぎもせず、繰り返すが際立った年輪をもつものが最上品質のものである。
というのは、年輪(冬目)は楽器の弦と同じ機能をもっており、縦方向の振動には最大の強度を保持するものだからである。(横方向の振動では、結晶性の優れたニスの助けが必要だが、それは全く別の事柄である。)
話を続けよう。
私が手にした杉(サンプル)はこれら全ての理想的条件を備えたものだったが、私の驚きはそればかりでなかった。
私は適当な量のこの木を購入し、年輪に正しく垂直に鋸で切断させ、次いで表面板を作るに要する2枚を切り取った。
それら2枚の薄板を継ぎ合わせ、金属板の上に一昼夜放置しておいた。
翌日、この表面板は完璧に平坦を保ち、端の部分で何らの反りも認められなかった。そうした反りは、同様の条件に晒した他の板には頻繁に起こるもので、極めて驚くべきことだった。
例外的な品質を持ち、安定で堅牢な木材を眼の前にしていたのだった。すぐにこれらの表面板で2本のギターを製作したが、この実験は全ての面で願った以上のものだった。
それ以後まもなく、この木が世界中の殆んどの製作家により、入手が極めて困難となったにも関わらず表面板として用いられている。最近は取引、伐採、販売の仕組みのせいで、入手が困難となっている。
ギター製作の為に選り抜き、最適な状態で得られる場合は、時には中央ヨーロッパの同等の木材以上のコストを要する。
木材業者、製材所の人達、木材倉庫の人達によって一般的に使われる木材の名称は、大きな混乱や誤解を生むもので、時には滑稽なことである。
従って、物事を理解できるようにする唯一の方法は、スウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネによって確立された学名に立ち戻ることである。
科学的に認められている杉には二種類のものがある。
その一つは、”Cedrella Odoratta”杉で、落葉樹の被子植物の木で、中央アメリカや南米の熱帯地帯に生え、大変広い年輪幅と良く目立つ気孔を持ち、代表的ギターネックとしてもちいられているものである。もう一つは、”Cedrus Spi”杉で、裸子植物常緑樹でありレバノン(Cedrus Libani)、ヒマラヤ(Cedrus Deodara)、そしてアルジェリアならびにモロッコ(Cedrus Atlantica)に自生している。
Oxford-on-Thames杉にも言及しておきたいが、それは”Chamaecparis Lawsoniana”と名付けられているものであり、一般名と学名が大きくかけ離れている。
赤杉(THUJA PLICATA)は常緑の針葉樹で、植物としては上記の木々とは何らの類似性が無い。
しかしそれは、いわゆるジャーマンスプルース、より正確には”Picea-Falso Abeto”の名で、学名”Picea Abies”の木と極めて類似のものであり、人類の記憶を超えた期間、弦楽器の胴に用いられてきたものである(真正のスプルース-Abies Alba-は主としてパルプや木箱の材として使われる)。
こうしたあまり興味深くない主題について延々と講釈を続けることもできるが、非常に辛抱強い読者を飽き飽きさせたくはないので、私自身の経験に基づいたこれら二種類の木材について、心から感じた事柄に限定する事としよう。
私はPicea-Falso AbetoとThuja Plicataが一人はブロンドでもう一人がブルネット、一方はヨーロッパの、他方はアメリカの二人の美しい姉妹と見なしている。
とはいえ、私自身はブルネットの方を贔屓するのだが,ブロンドを嫌うものではない。私の見るところ、これらの木にどういう名称を与えるかは全く重要でない。
赤杉で作ったギターは数年経てば音を失うとの、ある”品評家”の意見が私の耳に届いている。
こうした言葉はこの木の美に対する言語道断の中傷で、幸運ながら反論不可能な証拠で論破できる。
今でも親密な数名のコンサート演奏家ならびに音楽院の先生方が、私が赤杉で最初に作ったギターを所持しておられるが、それらは日毎に良く鳴っていて、18年あるいはそれ以上古いものである。
私はこの木で1967年に製作した1本のギターをコレクションの一部として所有しているが、それはマエストロ・セゴビアが2年間使い、1967年12月11日にマドリードの”王立劇場”での記念的コンサートで使用したものである。
その機会に、その功績に対し教育科学省の大臣がマエストロに金賞を授与した。
そして彼が演奏したこのギターは今日もっと良く鳴っている。このギターは今では17年間が経過したものであるが、私がここで確認している事柄を直に確かめたいと思われる方には、試奏可能である。
(多数のギター製作家達が間違った技術で響板を薄くし過ぎているのは,悲しい真実と言える。
こうしたテクニックで達成できる事は、せいぜい短い期間の大音量、しかも金属的で乾いた音を発するだけである。
そしてその過剰な振動が表面板の構造を疲労させ、その音を脆弱なものとさせる。
しかし、この方法で作れば、スプルースのギターでも全く同じ現象が起こる。)
イタリアのヴァイオリン、特に古いクレモナ派のものは厚い響板で作り、楽器構造の他の部分で均整を取っていて、正にこれが難しいところである。
それら楽器は比類のない音を維持して今日に至っている。
他方、別な起源の、より軽量に作られたヴァイオリンがあって、製作初期には輝かしく響くと思われたかも知れないが、イタリアのヴァイオリンと比べると遥かに貧相な音のものがある。
私はここで述べた事柄で、何かの隠された利益のためにスプルースをけなし、それにより杉を持ち上げているのではない事を明言しておきたい。
私は両方の木を区別無く用いているのであり、どちらかと言えば杉を多用するのは需要とテクニック上の利便性のためである。スプルースに関して語り得る事の全ては何世紀も前に達成された事柄で、比較的新規なため根拠の無い攻撃に対してやや形勢の悪い杉の肩をもつのが正当だと考える。
[ギターと伝統的な製作工房]
ギターを取り巻く世界に対し、その製作技巧について表に現れない仕事や構造面を明確に説明すべき時になったと思う。
それが故意に隠蔽された秘密と言うのではないが、こうした側面を真近に研究したり、少なくとも観察したいと望む人はあまりいない。
実際には、ほとんどの情報源、そしてそれらの背後にある単純な真実を、直裁かつ誠実に明るみに出すのにはわずかな試みで十分なのである。
ここで、情報の欠如と悪意で広められている虚偽の噂により、誤って信じられている事柄に対処するのが私の意図である。
それらは全く無節操な販売宣伝を目的とした結果である。
有用な評判が、誠実な行為と質の良い仕事だけで成り立っていた日々は幸せだった。
私は今でもそうした考えを大いに気に入っているのだが、現今の状況の下では、態度を変えざるを得ない。
ギター製作家が言うこととしては驚かれるかも知れない事から述べることにしよう。
ギターとは芸術作品ではなく、ほとんど根本的に技術的作品である。私は本気でそう思っている。
工房の仕事の合間に、数年前、有名な美術学校で4年間絵画の勉強をした。
だから、私には真の芸術と職工の作品の違いを明確に区別する資格があると思う。
モザイクのデザインとか、自然であったりそうでなかったりするボディライン、その他装飾の詳細には若干の芸術的な要素があるのを認めるし、好意ある方には、ギターが芸術的な商品と認めさせるに十分のものであると思う。
しかしながら、最も基本的要素を含めた残りのすべて、すなわち楽器の音そのものが、技術以上の何ものでもない。
そしてこのような認識は、相当な謙遜を要するものと思っている。
昔の職人工房が依存していたギルドは、11世紀末から12世紀初期にヨーロッパで生まれたもので、それは都市の経済的・商業的発展と、地域産物の生産ならびに販売をコントロールする目的で連帯を作ろうとする職人の要求の結果であった。
これらギルド組織は公的に認められ、収益とサービスを上納することを条件として一定の法制度が定められた。これら法規は一連の厳格な規定を含んでいて、組織の管理者(監視人、信任者、陪審員、親方、代理人など)の厳格な監視下におかれていた。
彼らは一般評議会で選出され、為政者の権威に支えられていた。監視人としての役割として、支配人らは規則を破る者には罰金や罰則を科す権限を与えられていた。
各々の職種の中で、三種からなる明確な階級が構築されていた。マエストロ(巨匠)、職人、徒弟である。
職人の範疇は徒弟からマエストロへの中途段階と考えられ、中世の終り頃には、マエストロの地位に上りたいと望むすべての職人は試験料として相当な額の金を納め、最高級の作品を提出することが求められた。
徒弟達は何らの報酬もなく2年から4年間の見習期間を過ごさねばならず、その後職人の職域に精進させられた。
徒弟ならびに職人は、経済的、社会的そして道徳的にマエストロに強く依存し、それは臣下とか家族的絆のような性格をもっていた。
ギルドは原材料の入手、分配、価格と労働時間の設定に権限をもち、他方各職場の責任者は賃金の取り決めや生産品の品質を管理していた。
マエストロの職務は、豊富な経験を基に、とりわけ教育することにあったが、設計しチェックしまた正すことでもあり、必要が生じれば道具を自らの手にとって作業遂行の最善かつ完璧な手法を実地に見せることにあった。
品質は必須の要素であり、この職域特性の有用性を保証するものだった。
同じく必須だったのが、仕事の指図人、経験と知識の伝授者、職人の仕事の監督、そして最終的には製作家としてのマエストロの存在だった。
これら制度は同時代、社会的かつ政治的両面において世の中に著しく作用し、偉大な芸術に影響を及ぼすほどだった。
ワグナーがオペラ”ニュルンベルクのマイスタージンガー”を作曲したのは、こうした制度にインスピレーションを感じてのことだった。
画家でさえ、特にルネッサンスの時代にはギルドの方式を採用し、徒弟ならびに職人(実際は生徒)を雇用した工房を開設した。
そうした工房から生まれた絵画には、事実として知られていることだが、巨匠は絵の主題とかそのデザイン、もしくは自身の手による僅かばかりの仕上げ以上の事はしなかった。
それら絵画は世界中の有名な美術館で誇り高く展示されているのである。
19世紀中葉に起こった産業革命は、こうした職人工房を徐々にではあるが完全に消滅させた。
もちろん、これは全てのギルド組織の消滅をもたらし、若干の象徴的ななごりが残るに過ぎず、別の組織-今日の労働組合-に道を譲り、生き残ったわずかの職人工房は、多かれ少なかれ社会に適応せねばならなかった。
こうした変遷を生き抜いた職人工房の中に楽器の製作者がある。
工房の工業化にはある程度まで成功したに過ぎず、それも平均的あるいは粗末な品質の製品について対応しただけであった。
現在ではマエストロの称号を得るに要する資格は、提出した傑作の審査に拠ることはない。(権威ある宮中会議の面前でギターを製作できる何人に対しても騎士の称号を授与したスペインの王アルフォンソX世(賢帝)の法令は、何と素晴らしかった事か。)
今やマエストロという名誉あるタイトルを獲得するための状況は異なり、また多くの異なる道がある-賞、公的あるいは一般の認証、展示などである。
19世紀の終りから今日にかけ、いにしえの徒弟制度ギルドの伝統と方式に従ったギター工房が存続した可能性はあるが、私は十分な情報も調査する手法も持ち合わせないので、当然ながら私が最も良く知っている家族内のマエストロ達に言及するに止めよう。
私は祖父ホセ・ラミレスI世の先生だったフランシスコ・ゴンサレスに関する何の知識も持っていないが、私の知る限り彼には他の弟子はいなかった。
祖父がなぜ自分自身(そして子孫達全員)を、ギター製作という不安定な仕事に踏み込ませ、しかも古いギルド制のギター工房を維持するとの決意を固めたのか、今でも私には分からない。
この決意はラミレス家全員によって守られ、それはまるで遠い過去から、生きて存在し続けている何かの力で私達にせまる、絶対的な命令に従うようなものだった。これが祖父の気紛れの一つだったのだろうか?
19世紀の終わり頃まで、ギター製作の商売には殆ど金銭的な重要性が無かった事を記憶しておかねばならない。
祖父自身が良く言っていた事だが、もしギター製作家が公的な厚生病院で死ねないとしたら、そこに入る手立てを持ち合わせないからだ。
他方、曽祖父のホセ・ラミレス・デ・ガラレータ(これが正しい名字)は、大変裕福だった。
曽祖父はサラマンカ公爵に協力して、公爵の名前を冠せられたマドリード地域の建設を手掛け、相当の資産を持っていたとの情報がある。
3人の息子の最年長だった私の祖父は、もっと危うくない仕事あるいは専門職を選ばなかったのみならず、弟のマヌエルを同じ愚行に引き入れた。
末弟はもっと実利的なセンスを持ち合わせていて、名のある裕福な株式取引人となった。
何物かへの本物の情熱を感じてのことでなければ、祖父の行為は理解できない。
1897年、ホセ・ラミレスI世はある展示会で、金賞と、同時に他の賞を合わせて獲得した。
彼には7-8人の弟子がいて、最も優秀だったのがエンリケ・ガルシア(後にシンプリシオの師匠となる)、パリで高名となったフリアン・ゴメス・ラミレス(偶然同じ姓だが私達の家系でない)、弟のマヌエル、そして息子で私の父親のホセ・ラミレスII世達だった。
私は父が、祖父の人格と内なる精神を物語る出来事を話していたのを憶えている。
あるマドリードのギター製作家の息子で、私の父と同年代の18歳の少年が、ある時1本の小さいギターを作ったが、多分子供用か、当時女性用に作られたギターと同種のものだった。
このギターがとても上品で魅力あるものだったので、少年の父親は当時高名なマエストロだった祖父に見せたいとの衝動にかられた。
私の祖父は、まことに良く作られたそのギターを賞賛し、この少年の作品を誉め、また同時に刺激になるようにと息子を招いた。
それには、おそらく他にも理由があった。私の父はこの小さい宝物をつぶさに観察し、本当に素晴らしい作品だと確かめたが、若輩の無邪気さでごく小さい欠点を指摘したが、実際にはそれを探していたのだった。
明らかに、これを祖父は待っていた。というのも祖父はその瞬間、父に強烈な平手打ちを見舞ったのだ。
私の父がこのショックからようやく立ち直った時、祖父の次の言葉を聞いた:「人の全ての作品に対して、賢者は長所を探し、愚者は欠点を探す。」
上に引き合いに出した事柄は、祖父が本物のマエストロだった事を示すに十分だと私は思う。
ほとんど同じ事が父ホセ・ラミレスII世についても言える。
彼は最高の賞を獲得した:1929年のセヴィリア博覧会における金賞、そして後に5名の職人弟子を持った。
私の祖叔父マヌエル・ラミレスは、少なくとも6人の職人弟子を持っていて、サントス・エルナンデスとドミンゴ・エステソが傑出していた。彼はまたヴァイオリン製作技術も修得し、非常に成功したので、マドリード王立音楽院の公式製作家という呼称を獲得した。彼はまた、マドリード王立教会のストラディヴァリウス・クワルテットの修復担当という、名誉と特権に恵まれた。祖叔父は非常に素晴らしいギターを製作していった。それらの1本は真の傑作であり、またマエストロ・セゴビアが初めての海外演奏旅行で使用した最初のギターがマヌエル工房で製作されたものだった事を私は後で知った。もう一人の、疑うことができないマエストロである。
こうしたかけがえのない、そして古き良き職人組織が家族的性格のものだったことを読者にご理解いただこうと思う。
1916年にマヌエルが子供がいないまま他界した時、職人達は”Viuda de Manuel Ramirez”(マヌエル・ラミレス未亡人)というラベルを持つ事で、工房を維持するよう未亡人を説得した。
それには各々の職人がラベルの隅に各人の頭文字をスタンプするという条件がついていた。
私は当時作られたギターをコレクションの一部として所有しているが、その中に”Viuda de Manuel Ramirez”のラベルがあり、サントス・エルナンデスの頭文字”S.H.”が片隅にスタンプされている。
私自身について語る時が来たが、それはあまり気が進む事ではない。とはいえ、私自身が最も良く心得ている主題であるので、私自身の心情や個人的経験を通して得た徒弟制度の知識の全てを披露するとなると、長たらしくなりかねないと危惧する。
1940年、18歳で私は父の工房で徒弟として働き始めた。国内戦争が終結したばかりで、当時工房のスタッフは2名の職人、手伝い1名、塗装職人1名、それに客の交渉に当る1人の販売員で構成されていた。
父のたっての願い、そして古い伝統への固執から、工房オーナーの息子としての私には全くの特典も無かった。
徒弟の艱難をより際立ったものとする為、この伝統はしばしばマエストロの息子達が仕事についた頃に工房間で「交換」する風習があったが、それは父親達の止むに止まれぬ”甘やかし”によって、必要な躾が緩むことのないようにするためだった。しかし私に関しては、これは不可能でもあり不必要でもあった。
我々の工房で時を見て製作にたずさわる徒弟もいたが、私は何時も最も骨が折れる嬉しくない仕事を任された。
二年後、私は最初のギター2本を作ることが出来た。それらの1本の所有者を知っているが、買い戻そうとの試みは無益に終っている。
その頃、3歳年下の弟アルフレドが工房での仕事に就かされた。
しかし、彼が重労働への気概を大して持ち合わせていなかったので、彼の仕事は経営的なもので、それには十分向いていた。
兄は何時も私がとりつかれていた事柄に対し、非常に貴重な精神的サポートをくれた:私が拘泥した事とは、「楽器としてのギターは静止した状態にあり、革命的な変化を要する」というものだった。私が飽きる事無く研究を始めた理由だった。
何らかの指針となり得る科学の書物を、文字通り貪るように読みふけった。
私が製作したギターはそれぞれが新しいデザインのもので、新しい技法や経験に基づいたものだった。
何本かは全くの失敗作で、それ以前の作品とは様式を含めて異なるものだった。
これは、通常ギター製作に費やす時間が2倍や3倍にさえなる事を意味し、当然ながら父からの反対に至るものだった。
とはいえ、父は研究に反対するのではなく、もっと穏当に、常に特定のモデルに基づくことを要求した。
行き着いたのは深刻な対立だった。幸運な事に、私は兄からの強い支持を得た。
兄は父から知性的で分別があると見なされ(まことにその通りだった)、他方私は空想に耽るばか者と思われていた。
私が実行した無数の実験を記述するには、1冊の本を書く事もできるが、それら実験の大多数は全くの失敗に帰した。
ごく僅かのものが何らか有益で、大多数は何ら評価し得るほどの変化ももたらさなかった。
後者のような結果はこの上なく失望させられるものだった。何故なら、次にたどる道筋を何ら示さなかったからだ。
私はむしろ失敗の方を好んだが、それは反対の道筋に進歩できる可能性があったからだ。
私は高度な科学的研鑽を積んだ方々に相談したが、彼等は私が目の前に抱えていた一連の問題の攻略に多大の援助を提供してくれた。彼等おのおのに感謝を表明したい。私は、とりつかれていたとも言えるような精神的状態を”楽しむ”境地にさえ達していた。
こうした艱難すべてに加え、国内戦争と第二次世界大戦の両方の戦後時代がもたらした多大の困苦に耐えねばならなかった。
木材を輸入する手立てはなく、入手可能な僅かな木材は詐欺的に、また粗末な状態で得られたのみで、幸運な場合には古い家具を分解して入手した。
長年、私は倉庫に残っていた木材で事を済ませねばならなかったが、それらは私の祖父や父の職人達が、不適当あるいは使用不可として排除したものだった。
父は繰り返し輸入ライセンスを申請したが、それらが”重大事にあらず”とのスタンプで返された時、換言すれが拒絶された事を意味したのだが、そんな時には文句の数々を聞かないために、父の側から離れるのが最善策だった。
私が所有していた道具類はすべて古い職人達から受け継いだもので、あるものは50年やそれ以上の使用に耐えたものであり、当時それ相応な道具を手に入れるすべが無かった。
鑿、やすり、大目やすり、鉋などは事実上博物館に展示し得るほどに貴重なもので、動力工具類に至っては、私と中世職人の差は、世の中の何処かにそれらが存在しているのを私が事実として知っていたこと位である。
とはいえ、わたしは足踏みで、鉄の弾み車付きの40kgもある帯鋸を所有していた。それは大いに役立ち、右足のヘルニアを代償とするものだったが、私はそれを勲章として抱え続けている。
道具類は足踏みの砥石あるいは手動式変速グラインダで研いだ。そうした仕事で私は何時も職人等を手助けしたもので、かなり背伸びしたがき職人だったようだ。
私の徒弟時代、そして後の職人時代を通して、何物にも勝る苦痛は電気の制限だった:小さくて外に向かって一つの窓しかない薄暗い工房に2時間の電気割り当てしかなかった。来る年も来る年も、油やカーバイドのランプの不十分な灯りを使って行かねばならなかったし、時には蝋燭の灯りで働かねばならなかった。冬に暖かくするとか、夏に涼しく過ごすとかは、空想の世界をさまように等しいもので、今ではおかげで(何時の日かその気になった時)しもやけの生成とか、蒸し風呂の身体的、精神的な効用に関する才気あふれたエッセイを書けるほどになった。何と素晴らしい規制だったことか!
1950年になると、状況はかなり好転した。より受け入れられる材料が得られるようになり、傑作を作ろうという気持ちになった。
2本のギターを作ったが、故意に何らのパーフリングも使用しなかった。
それらの唯一の装飾といえば、自らが作った埋め込みモザイクだったが、線状に伸ばすと各ギターに対して12メートルの長さだった。父がこれらギターを売ってしまわないようにと、私はあらゆる計略を駆使した。
この2本のギターを、別の私のギターと一緒に持っていたかった。その主な理由は、それらが研究を継続する為の参考となり得る突出した特徴を備えたものだったからだった。
父はほとんどのギターを売るのが常だったので、これら特別な2本の販売を止めさせようと、販売不可能となるような条件を設定した:それは少なくとも近傍では聞いた事も見たこともない法外な価格で、スキャンダルの種となった。
しかし、実に残念な事に、それらは1ヶ月以内に売れてしまった。それらの1本はベネズエラへ行ったと思うが、別の1本が何処へ売れたかは知ろうと思わなかった。少なくともそれら1本でも回収できるなら、対価は厭わないだろう! 実際、これらの期間に自らの手で作ったギターの内、取り戻せたのは1946年製作のただ1本にすぎない。
1954年に、ペニシリンによる副作用で弟が死去した。
彼の死は稲妻のように私を打ちのめし、私は慰めようのない孤独に陥った。
この強烈な打撃から回復するには長時間を要した。そのころ重い病を患っていた父は、弟より3年長生きしただけで、更なる追い撃ちとなった。
私は独りぼっちで残され、工房での仕事、事務所の仕事、そして客の対応に時間をさかなくてはならなかった。
仕事を大きく変革する事がどうしても必要となった:もっと現実的になり、長年暮らしてきた雲の上から降りる必要があった。自分の経験の中でプラスとなったものを全てまとめ、基本的なモデルを作り上げた。
それは父が過去に私に忠告したように、その後も実験を継続し得るものであったが、徒弟時代に作るよう教えられた楽器とは全く異なるものとなった。
そして木工関係の工作に経験を持つ優秀な人材を注意深く選び、職人の教育を始めた。
これが達成された迅速さには驚かされた。私は、権威ある見解によれば、純粋に伝統的で真に手本となる工房を経営していたことを後から知った。
マエストロの称号が王室の認可によって得られた時代が過ぎて久しい。
しかし-ただ1人の徒弟の手伝いと、聖ヨセフ(アリマテアのヨセフ)が当時使ったのと同じような道具と手段で17年間作業台で過ごした事、加えて”国家的工芸品”として、労働省、商業会議所から賞を授与され、また私の弟子達の何名かは今や独立して成功していることなどが十分な資格だとしたら、私は工芸職マエストロという伝統的で名誉ある称号を授与される条件を備えているだろうと思う。
にもかかわらず、私の心を喜びで満たしてくれるようなやりかたで、このタイトルを取得できなかった事を心から残念に感じている。
それはいにしえのギルド権威者によってということだが、ギルドが生き生きとした力を持っていた喜ばしい世紀の一つから、何らかの魔法の風によって現在に持ち越されたのなら、何と嬉しいことだろう。
社会学者によれば、職人の道具は、個人的な生産を可能とする種類のものであり、作品が意図している少数で特別な要求をもつ人達によって評価されるような、高い品質を達成するものである。
もしそうではなく、他の異なった要因(”理想”と呼んでおこう)が作品の制作に介入するとすれば、職人の最高の作品は、最も厳密な意味において”すべて”手だけで制作されなくてはならない。
やすり、のみ、筆そして鋸などは科学技術であり、仕事の一定の能率を向上させるこれら道具や他の要素無しで済ますとすれば、自分たちの爪で削り、自分の歯で切り、自分の指で塗装せねばならないだろう。
高度な製作技巧の作品を特徴づける決定的な要因は、作品そのものの品質であり、要約すれば、材料ならびにマエストロによってなされた研究による保証の印であろう。
こうした品質条件を与えるのは、もはやギルドマエストロの会合ではない:それを保証するのは、はるかに厳しく妥協する事のない決定機関で、その判定においては、最高レベルの品質を達成しているか、できればそれを凌駕しなくてはならず、それ以外の要因は評価される事はない。
実は、私の長年の夢は垂直なベルトで駆動する電動鋸を持つことだった。
他のギター製作者と同じく、苦労して手に入れた僅かな木材を借りものの鋸で切らねばならなかった。
その鋸は、すぐれた製材業者から提供されたものだったが、主な目的が大工仕事であり、ガタガタで精度が悪い代物だった。美しい板を何度無駄にした事か!
今は自分の電動鋸を所有している。真に高精度な宝物だと言うべきものである。
木材切断の工程はきわめて重要である。それがギターの音に大きな影響を及ぼすのである。
ギター製作においては、不必要に難しい仕事がいくつもあった。それらの一つが、予め継ぎ合せたギターの腹部と裏板を、それらの正確な寸法を確保するよう、最善の状態に調整する事だった。
この作業は、今では単純な回転式サンダーで行える。
パーフリングやロゼットを埋め込むための、ギターの端やサウンドホール周囲の溝切りも、同様に難しい作業である。
この極めて繊細で困難な作業も、小さい電動工具の操作により、ノミによる仕上げを残すだけとなる。指板上に残った荒い面は、小さいトリマーで平坦とし、後は複雑な仕上げを手作業で実行すればよい。
足踏み式ではなく電気で動く幾つかの丸鋸を別にすれば、これが私が所有する全ての”機械”である。
私がここで書き記している事は容易に確かめられる。
なぜなら、私の仕事場を訪れたいとの要請があれば、喜んで応じる積もりだから。(どなたか賭けに勝ちたいと思われますか?)
この”巨大な”工業化にもかかわらず、可能な限り古い職人ギルドの方式に従うよう続けてきた。
第一級職人の称号は、古い時代のマエストロに相当するが、私の工房の職人は以下の条件で得られる:必要な要請をした後(全てが口頭で行なわれ、書類はない)、志願者は4本のギターを提出しなければならないが、それらの中に微小な欠点の一つも私が見つけてはならない。
欠点とは、楽器としてのギターの音とか演奏の容易さを意味しない。
試験に受かるためには、それら側面はとっくに克服されているのが当然だからである。
うっかり見落とした引っかき傷とか、ごく小さい線の歪みといったもの、それらは私が落第とするに十分で、再度試験が必要となる。
しかし、私が”貴方は今や第一級職人です”と言ったとき、繰り返すが書面でなされることはなく、私が確信をもって評価していることを誰もが知っているので、その返事として表される純粋で高貴な誇りを想うことは、なにか古い世界の趣を湛えて、私のこの上ない喜びである。
古き良き時代の工房の手法全てに従い、職人達は些細な点に至るまで正確に私の指図を守る。
彼等の作業は、私の弟子のうちで最も優れた「助手」によって細部に至るまで監督される。精度の要求は、しばしば1/10ミリメートル単位が必要であって、木を相手にしている時には極めて困難であり、極度の注意が求められる。
工房の下級職人は、可能な限りの均一性を確保するため、上級職人らに半手工品部品を提供する。
楽器が完成すると3種の検査を通過しなければならないが、最も嬉しくないのが私自身による検査である。
この工房を立ち上げて以来、気紛れな個人的動機でこのルールに反した事は全くないが、恐らくそれは職人の言葉に耳を傾け、論議して分析し、そして示唆を与える私の性格によるのだろう。
時たま起こったのは、いくつかの過ちが犯され、それがもとで工房中に騒動が持ちあがり、ありとあらゆる批判があびせられることだった。
こうした事例のいくつかにおいては、失策の張本人は数日間工房に仕事に来ることはなく、あるいは自宅に引き篭るが、それは後悔の念にかられてのことだったり、仕事仲間からの冷かしに我慢できなくてのことだった。
これら全てが意味するのは、ギターへの愛着と全身全霊の奉仕であり、古き良き時代に花開いた理想のなごりだが、残念ながら今では痕跡ほどしか残っていない。
私は”純粋な人”を何ものにも増して尊敬する。
というのは、私自身がこの敬うべき熱心さで鼓舞されているからである。
しかし、たった一人で仕事に打ち込む製作家と、全ての個性が尊重され職人気質が刻印された職人工房とは、同程度に純粋であると思う。
フロレンスの”サンタ・マリア・ディ・フィオリ”の有名なドームの煉瓦が、自身の手で積まれたものではないとして、ブルネレッチのような人物を批判するとか、疑うとかの過剰反応に陥らぬよう注意せねばならない。
製作者の名を冠するのは芸術的コンセプトに依存するもので、仕事自体は無名の人によるものとしても、それで製作者に仕事の達成について功績を差し引くべきでないということである。
公平であろうとなかろうと、これが真実の事態であり、何世紀にもおよんで世界中で、そのように確立され容認されてきたのである。そのように受け入れられて来た事には何らかの強固な理由があるに違いなく、その理由が何かを私が分析を試みる事はあるまい。
以下の事例が、この話題に関してなされ得る多くの考察点を明確にするだろう:20世紀に入ると、工場生産品の値段に対する職人仕事のコスト増加が顕著となり、それが次第に大きくなり、ギターの製作はこの新しい事態のために特に影響を受けた。将来は並外れた芸術家になる潜在能力を持った初心者あるいは単なる愛好家にとって、打ち込んだ真面目な練習を継続できない状況では、高価な手工品ギターを買うことが大きな問題となった(今でもそうである)。
ギターに対する知識は広まったが、その一部は工場生産品に負うものだった。それらは私から見れば品質の低いものではあったが、愛好家が安価な楽器を入手する機会を提供した。
それは少なくとも出発点として役立ち、僅少な愛好家の一部は、いかに小人数であったとしても、いずれは楽器への愛情をもったり、真の専門的に楽器に取り組むようになり、遅かれ早かれ高品質の手工ギターを手に入れようと努めるだろう。
私の祖父はこの状況を先見の明で把握し、多少の技術的助言と若干の資金的援助をして、こうした様式の製作に関わるようになった。
この新しいビジネスに乗り出すにあったって、祖父は当時販売されていた製品より、弦を含めて、単なる”箱”よりは威厳を備えた製品を出荷できる生産工場の協力を求めた。
更に、それら楽器が所有者達を失望させるのではなく、彼等に学ぶ動機を与えうるものとするため、多少の仕上げ作業と必要な修正を自分の工房で行った。
というのは、楽器としてのギターに必要な細かい作業に注意を払わない製造者によって扱われると、今でも同じ事が起こり続けているとおりだが、不幸な事に所有者を失望させる事態が起こるからだった。
ギターの取り扱いについて何らの考えも持たないディーラーについても全く同じで、手元にあるどんなギターでも、委託されたままの状態で経験の無い客に売り、後になると如何なる責任も取りたくはないのだ。
なぜなら、ほとんどの場合、職人が容易に解決し得るような問題も、彼等は見つける能力を持たないからだ。
当初、祖父はこれら工場生産のギターには何もラベルも貼らなかった。そうした”代物”に、どうして自分の名を冠することができようか?
しかし、当然だがこれが問題を引き起こした。
調整や修理をしたり、時には悪意で成された不満に満足に対処するため、遅かれ早かれ、職人工房が、ディーラーがあてにする最終的な責任の所在となったからだった。そんな訳で、それらギターに責任を取り、また当面の問題を解決するのに、祖父にはそれらギターの出所を明かす以外の方策が無かった。祖父は簡便で平凡なラベルを考案した(通し番号と署名がついた、自分の工房で製作したギターに使用するものとは似ても似つかぬもの)。
それらのラベルに、私は最近”GUITARRA DE ESTUDIO”(練習用ギター)という名称を追加した。
誰も偽作と疑えぬよう、より明確にし混同を避けるためである。
こうした種類のギターの大量生産を目的とした共同起業を、私は国内外から多数提案された。
その立ち上げと機械化への強固な資金提供の申し出もあった。
決まって私はこうした提案を拒絶せねばならなかったが、私にはそうしたギターの生産はできないとの、正直にそして信念にもとづくものだった。私の専門家としての修練がそうさせないし、そうした共同生産は生産されるギターを自ら管理せざるを得なくさせるだろう。
1ヶ月当り何千本ものギター生産を、如何にして私の流儀でコントロールできようか?
そんな生産に必要な木の事を考えただけで、それらが適切に経年させられねばならないので、私の頭はめまいがするのだ。
数年前、私はマドリード近郊の非常に乾燥した土地に、およそ900平方メートルの1階建てのビルを購入し、自分のギターに使うための数トンに及ぶ、異なったタイプの木を保管している。
意図した通りの役割を果たすためには、この木の冬目は完璧に固化されなけらばならない。
その役割は、縦方向の振動の伝達である。冬目は樹脂を貯蔵する組織で、樹脂は実際上石質化されねばならない。
いわゆる”赤杉”と中央ヨーロッパのスプルースを合わせて、私はおよそ20,000セットの表面板を保有し、消費するたびに補充している。
現在使用している表面板の一部は、25年間以上貯蔵してきたもので、今買入れている表面板がギターに変わるのを見るだけ長生きできるとはとても思わない。
ある種の大量生産業者がどのように木を経年させるのか、私には理解しがたい。適切に木を経年させるのは、疑い無く賞賛に値する作業である。
伝統的な職人工房は現在も設置されており、少なくともスペインにおいては、その純粋さをすべて維持して生き続けている事を記述したいという私の気持ちから、若干わき道に逸れてしまった事を認めなくてはならない。
これらの工房は、公的支援や、過去の何世紀かには実際に機能していた組織からの支援なしに、また妬みや悪意に満ちた批判にもかかわらず、維持されているのである。
私は、ヴァイオリンのクレモナ派のような、素晴らしい工房へ敬意を払うのを忘れる事無く記述してきた。
この項を終えるにあたり、奇妙とも思える様な計算をしておくが、それは読者の理解を深めることになると思う。
42年間にわたって、自身の手、あるいは自分の工房でギターを作ってきた。これら年月の間に、私は18,000本のギターを作ったが、年間平均430本となる。
もしも、徒弟とかアシスタントからの手助けだけで、年間30本のペースで(フルスピードでの製作を意味する)それらを自分の手で作ったとしたら、今日までに高々1,260本しか作れなかっただろう。上に述べた18,000本は、注文を受けて既に販売してしまったので、残っている要求量を満たすには、16,740本不足する事となってしまう。
これが意味する事は、私がたった一人で仕事をし、今誰かがたまたま1本のギターを注文したとすると、発送が2542年近くになると告げねばならない。
今から558年も先の事である。注文をし、こんな答えを貰うとしたら、注文者がどんな顔をするか容易に想像ができよう。
さて、現実に立ち返り、単なる数字を忘れることにすれば、上記の事実が意味する論理的帰結として、私はあまり多くの注文を受けないことになろう。
しかし、もっともっと”穏当な”発送日-例えば今日から60年後”-を提示すれば、私にとっては十分だろう。
これは、遠い将来お孫さんの一人がギターに献身するかも知れぬとして、買う可能性のある人が熟慮して注文するかどうかをお決めになれる日付である。
価格については、むしろ何も申し上げない方が良いだろう。
[フラメンコギター]
フラメンコギターは、フラメンコという独特な芸術との僅かな絆を維持している。
フラメンコギターはこの芸術の重要な一部をなすが、フラメンコ芸術は伝統に覆われたもので、神秘的ともいえる性格を持ち、このためある種の”呪文”を湛えているとしばしば言われる。
このため、フラメンコギターはその歴史を通して変化を受け入れることはほとんどなく、クラシックギターが容易に吸収した技術的進歩を、フラメンコギターが受け入れたのは非常に稀である。
たいていのフラメンコギター奏者は、前世紀の後半に形が固定して以後、ほぼ一世紀の間、殆ど変わらぬ姿で存在し続けたある形態のギターにこだわりを持つ。
フラメンコギターを理解するためには、その歴史を通してフラメンコギターが進化を遂げた雰囲気を、皮相的にであれ、知らねばならないと思う。
私自身、フラメンコ”熱愛者”であり、そうあり続けている。
これは一見容易にみえるかも知れないが、掘り下げれば、この芸術が含むものを多少とも感得し、フラメンコなるものが稀にしか許容しない、あの曖昧な”熱愛者”というタイトルを獲得するには、長年の献身が必要なのである。
フラメンコの性格は、余興や楽しみとしてなら陽気なものであるが、芸術的には非常に高度なもので、酷評から無条件な絶賛に至るレベルが頑固なほどに格付けされる。
この芸術に秀でる人への妬みのかけらもない驚くべき序列は、常に重視される。
フラメンコは非常に迷信に満ちていて、そのためある種の美しい”カンテ”(歌)が、”不吉”と考えられるとの理由で聞かれることが少ない。まったく同じ理由から、(裏板と横板の話だが)真正のフラメンコギターは殆ど常に白木、大抵はシープレス、例外的に楓で作られている。
黒い色の木で作られているギターは、”黒”ギターで、そのため”不運”をもたらすとされる。
フラメンコはジプシーに根ざしたものと広く信じられている。
ジプシーがフラメンコの情緒・創作面で推し量れない貢献をしてきたと述べるのが公正とはいえ、彼らがフラメンコの根本的創始者ではない。
フラメンコの起源は記録に残る前に遡り、十分に根拠のある見解によれば、その起源の一つは古代ギリシャの信仰行事の歌とリズムである。
カディスならびにその周辺がフラメンコの生まれた地域である事、そして正にこの都市がスペインにおけるギリシャの移民地であった事実を忘れてはならない。
他方、ヘブライならびにアラブ音楽もまたフラメンコの土台をなしているが、ギリシャ音楽がそれら音楽形態に影響を及ぼした事は心に留めねばならない。
ジプシーが15世紀に始めてスペインに来た時、彼らの大多数がアンダルシアに留まり、その地の音楽を取り入れた。
同じことはハンガリーに移住したジプシーについても言い得ることで、彼らはその国の音楽を吸収し、自らの情緒様式を吹き込み、今日ジプシー音楽(Zigan)として知られている世界に貢献した。
奇妙なことに、ハンガリのジプシーとスペインのジプシー達は、お互いの古代語(カロあるいはロマニー)を用いて比較的容易に理解し合うのだが、音楽面においては、ハンガリージプシーはヴァイオリンでボヘミア旋律を奏でるのに対し、スペインジプシーはギターでフラメンコ音楽を演奏する。
過去数世紀の間にどのようにしてフラメンコが進化したかを突き止めるのは不可能である。
楽譜を整える試みがなされたのは比較的最近になってからの事で、それも殆ど成功の見込みが無く、録音がなされたのも近年の事に過ぎない。
フラメンコの過去の全ては、殆どが覗き見ることの出来ない神秘である。
この過去を理解する助けとなる若干の言い伝え、多少の文章を知るに過ぎないが、それらは殆どが法律みたいな重みを有する。
それら文章の一つは、”本物のフラメンコを聞くため、必要な人達は1本の傘の下に収容しえる人数である。”
この見解は前世紀の中ごろに始まったに違いなく、私が知る限りフラメンコがその進化の頂点に至った時期で、私の個人的経験に基づけば、これは今日でも正しい。フラメンコの集まりは(普通夜の事だが)、一人のギタリスト、二人の”カンタオール”(歌い手)、一名はアンダルシア南部のカンテのスペシャリストで、もう一人はレバント(東部)カンテの専門家、そして二名の熱愛者からなる。
これが相応しい人数なのである。
二名のギタリストは、特にカンテの伴奏において、各人が異なる様式の演奏のスペシャリストである場合に容認され、最大限三名の熱愛者が許容される(四人は許しがたい騒動を引き起こすだろう)。
こうした集い、あるいは”フラメンコ祭り”は、儀式と非常に似た一連の行動をたどる。
親しい会話、ギターによる”ファルセータ”(和声進行)、”カンテ・チコス”(軽妙なフラメンコ)、もっと重々しいカンテ、そして集まった人達に不可思議な魔力が降り注ぐ瞬間がついに訪れる。
彼らの周りの空気を形容しがたい何物かが包み、微かで魅惑的な光に照らされ、比べようのない美への高揚が始まり、全ての事物が異なった光の下で見られる。
カンタオールとギタリストが、自分たち自身の芸術から、より大きな愉悦を導き出そうとするのは正にこの時で、熱愛者達がそうするのではない。
遂に荘厳で深遠なカンテが、相応しい威厳の全てを伴って演出される瞬間が訪れ、そよ風に伴われて窓からは夜明けが遠慮がちに差しこみ始るのだが、恐らくそれはそこに投げ込まれた呪文に誘われてのことに違いない。
というのは、その呪文の存在に恍惚があるから。遠い過去の忘れ去られた先祖達がたどたどしく入ってきて来る。
そのぼんやりとした亡霊が魂の耳に語りかける-情熱、挑戦、恋、戦い、犠牲、勇猛な行動-そうした木霊を。
全員は沈黙の中で引き上げる。陳腐な世間話を発するのはぶち壊しとなる。
なぜなら、それらは蜘蛛の糸のように壊れやすい呪文を壊してしまうからだ。
数時間後に目覚めたとき、ソレアの繊細だが心を締めつける旋律が魂の中に漂い続ける。
今日においてはごく少数の人達しか知らないこのフラメンコの記述を行う必要があったのは、この様式の芸術が前世紀後半を通してどんな風に現われ出たかのイメージを読者に提供する為だった。
自然なことだが、そうした小さい集まりでは、用いられたギターはサイズが小さく、軽くて甘い音のものだった。
私はアントニオ・トーレスが1862年に作った(シープレス)1本のギターをコレクションとして所有しているが、弦長が650mm、胴体幅が238mmならびに312mm、そして横板の平均幅が94mmのものである。
当時トーレスは現在のギターと同じサイズのクラシックギターも製作していた事を考慮すれば、ギター製作家たちがフラメンコギタリストから扱い易い、小型で軽量のギター製作を依頼されていた事が明らかとなる。
そんな訳で、カラセド、ジョレンテ、パヘス、その他の当時の製作家達が作ったギターは、そうした特徴を備えたものであった。彼らにはそれ以上のものは必要なかった。
前世紀終わり頃になると、少数だが比較的大人数の聴衆を収容する”カフェ・デ・チニータス”とか”エル・ブレロ”などのフラメンコ”タブラオ”(小劇場)が生まれたことで問題が生じた。
フラメンコがその隠れたプライベートな範囲から出て、大人数の公衆に晒される事となり、ホールで演技されることになると問題はさらに明白となった。
何名かの偉大なフラメンコ芸術家が、こうした挑戦的な時期に適切な活躍をしたことに言及すべきとは言え、伝統的フラメンコギターは非常に困難な状況に陥った。
あるフラメンコグループで、4、5名のギタリストではその音楽を聞かすには不十分となった。
何故なら、ギターの音が”パルマ”(手打ちの音)や”タコネオ”(踵打ち)でかき消されてしまうからだった。
その当時、私の祖父ホセ・ラミレスI世は、恐らく最も傑出した製作家だったらしく、彼らの問題を解決してもらえるよう、ギタリスト達から選び出された。
トーレスは世を去って久しく、私の祖父が”タブラオ”ギターを考案したのはそうした時期の事で、それは音量を大きくする為、ずいぶん大型の胴体を持つギターだった。
この楽器の内部構造はトーレスの標準に合致するものだが、その寸法はこの有名な製作家の作品に比べより大型だった。
コレクションの一部に、祖父が1918年に製作した”タブラオ”ギターを持っているが、白木メープルで作り、弦長650mm、胴体サイズが280mm、380mm、横板の平均幅が84mmのものである。
この様式において、祖父は横板幅を狭くしたが、多分それはギタリスト達が弾き慣れていたギターと余り違和感を持たぬようにしたためだろうと述べておきたい。長年このギターはフラメンコギタリスト達の問題への解決となった。深く根ざした伝統から、彼らはこの小型で甘い音色のギターに憧れたに違いないと想像する。祖父の様式のギターに、より良い表現の可能性、そして上述した環境での傑出した鳴りを見出したのだろう。
当時、祖父の最も傑出した弟子は実弟のマヌエル・ラミレスだった。
徒弟時代のある時期、マヌエルは兄であり教師だった祖父に、パリで身を立てる計画を持っていると打ち明けた。
彼の特質だった気前の良さと親切心の全てを以って、祖父は祖叔父マヌエルが計画を実現すべく、犠牲を払って援助した。
しかし、全ての用意が整った時、私には一切明かされる事の無かった何事かが起った。
祖叔父の偉大な人格を考えに入れると、それは不可抗力だったに違いない。パリは行かず、マヌエルはマドリードのアルラバン通りで独立した。
この事から兄弟の間に深い敵愾心が生まれ、互いの頑固な気質のゆえにそれは時が経つと共に益々深まった。
この状況は二人の死に至るまで続いた。
二人を直接知る機会は無かったが、この亀裂の記憶は私にとって常に痛ましいもので、生涯を通して続くものだろう。
彼らに対する知識は全て家族、友人あるいは弟子達から学んだもので、この兄弟に関して学ぶほどに、二人を益々敬愛するに役立つものだった。
マヌエル・ラミレスは仕事で独立した後も、兄のギターと同じタブラオモデルの製作を継続した。
私は1900年に作られたマヌエルのギターを所有しているが、上述した祖父のギターと殆ど同じである。
しかしマヌエルは若く、しかも強い創造意欲を持っていたので、自身の判定基準に従ってほどなくフラメンコギターの改良に取り掛かり、遂にこの楽器の理想的なモデルとして確立され得るギターを作り上げた。
今日に至っても、このモデルは殆ど変更されず、徹頭徹尾伝統にこだわるフラメンコギタリストから無条件に受け入れられている。
マヌエルのギターは、ギターの進化の時期に相当し、1911年に製作された私のコレクションは以下の寸法を持っている:弦長655mm、胴体幅278及び364mm、横板幅の平均は90mm。内部構造はトーレスの標準である。
その頃までには祖父は重い病を患っていたが、自分の大いなる成功-あの”タブラオ”ギター-に固執していた。
それは全く変更を受けず、ずっと信奉者を持っていた。
しかしながら、こうしたファンも次第にマヌエルの創作品へと転換していった。
幸運な事に、末期になっても祖父は多数の信奉者を持ちつづけていた。