はじめに
私が左手に異常を感じたのはもう25年も前のことです。どうも動きが重い。あまり練習していないときだったので、当然、練習不足と思い、バランスの悪い無理な練習を課し、それが悪化を決定づけました。できるはずの部分ができない。得意な部分ができない。これは指がこわれたのではないか...そのときの苛立ちと憂鬱な気持ちは、言葉に表せるものではありません。それが今ごろになって、ほとんど全快と言ってよい状態にまで回復することに成功しました。おそらく、ギターを弾かれる方で、手をこわして演奏を断念された方は少なくないことでしょう。私はここで、自分の体験から、「あきらめることはない」ということを示したいと思います。もちろん、ここに述べることは研究結果ではありませんし、何も裏付けはありません。あくまで私の個人的な体験です。同じやり方を他の方が適用しても、良くなる保証がないばかりか、悪化させるかもしれません。どうぞこの点を十分留意された上でお読みいただきたいと思います。アウラの本山社長、鎌田店長には、私的な体験を述べる機会を与えていただきましたことに深謝いたします。
ことの始まり
痛みはありませんでした。ですから、そこそこ弾ける。しかし、それがかえって私を苛立たせました。 私の左手は、まるでからかうように、肝心なところにさしかかると言うことをきかないのです。ちょうど足がもつれて、ころぶようなものです。もちろん、治療をしました。鍼を打ち、注射を打ち、消炎剤を飲み、マッサージをし、体操をやりました。注射は左手首に直接入れました。今思い出すと自分でもぞっとします。これは1回しかききませんでした。もっとも効果があったのは、指圧でした。しかし、この治療も、しばらく続けると次第に効果が頭打ちとなり、最終的に私の指に問題は見られないと宣告されてしまいました。つまり、これ以上はなおらないと。限界への諦めがじわじわと広がります。でも、この宣告には一筋の希望がありました。少なくとも、この先生の感触では、私の腕や指に問題はないのです。もしかしたら私の脳や反射神経があのショックから立ち直れないだけなのかもしれない。この一縷の望みは、その後長期にわたって何度となく練習を再開する原動力となりました。
ところで治ったといっても、私の演奏レベルについて疑問をもたれる方もいらっしゃるでしょう。自分のレベルを客観的に述べることは難しいのですが、現在でも一晩のコンサートに困らない程度のレパートリーを暗譜していること、国際コンクールに出場した経験があるということから、ご判断いただければと思います。
回復方法の概略
読者の方は、「早くどうやったら治ったのか書け」と思われていることでしょう。一口に言ってしまえば、「左手の甲の側を改善した」ということです。ほとんど、このことに尽きます。具体的には、右手のラスゲアードの練習を、左手でやると考えていただければ理解しやすいと思います。しかし、ひとつのやり方で一挙に解決するわけではありません。無理の無いように、あくまで慎重に、薄皮を1枚ずつ剥いでいく感じです。あるパターンが効果があっても、1週間ほど続けると頭打ちになります。そうしたら別のパターンに移ります。前に効果があったパターンは、後になると効果がない場合がほとんどです。おそらくそのパターンに対応する部分がすでに回復してしまっていて、問題が別のところに移ってしまっているのでしょう。握る方向の練習はまったくと言ってよいくらい、効果がありませんでした。よくスポーツ用品店で販売されている握力を鍛える道具をいくつも試してみましたが、少なくとも私には効果がありません。しかし、これらの道具が良くないというわけでもないと思います。ギターは左右の指を酷使するのに、その末梢まで十分に血液を運ぶことについて、あなたは無関心ではありませんか。心臓から絶えず新鮮な血液を供給し、末梢から老廃物をいち早く回収するためには、適度に肩や腕を鍛えることも良い予防法となることでしょう。
もうひとつ、(これを先に書くべきだったかもしれません)リラックスが大切です。自己催眠法にあたるのだと思いますが、腕を脱力し、深くゆっくり呼吸することによって肩から先の緊張をほぐすのです。これをバカにしてはいけません。一度トラブルに見舞われた手は、ギターを握ると無意識のうちに緊張して、悪いパターンから抜け出しにくくなります。力が抜けるとはどういうことか、何度も試して実感していただくと良いと思います。
楽器をもった練習はどうやるか。セゴビアの全音階練習にまさるものは無いと思います。脱力の練習と考えてもよいし、柔軟と考えてもよいでしょう。負荷をかけるには速度を上げればよいのです。最近わかったことですが、動きの速度を上げるのはとても重要なことです。ゆっくりやってできるところは、いつかはできるようになります。でも、ゆっくりやっているだけでは瞬発力がつきません。また、速度が上がるということは脱力もできていることになります。否応なく脱力せざるを得ないといった方がいいかもしれません。
以上で主なポイントはほとんど含まれています。私が今気がかりなのは、ではさっそくといって闇雲にこれらを実践することです。とくに、はじめのラスゲアードの練習は慎重の上にも慎重にやる必要があります。たぶん、手をこわすほど練習した方は、几帳面な性格の持ち主ではないでしょうか。ぜひ楽な気持ちでおやりください。回復は長丁場です。あせっては元も子もない結果となる恐れがあります。
本当に腱鞘炎だったのか
さて、私のトラブルは本当に腱鞘炎だったのか、という疑問をもたれる方もおられると思います。明確にはわかりません。ひとりの整形外科医がそう診断したのであって、実はそうではなかったという可能性もあります。長い期間かけて自然に回復したのではないか、という見方も可能です。これについては答えようがありません。
ところで、トラブルに見舞われて医者の診断を受けた方は経験されたことでしょうが、生活に支障のない病気について、医師は本気になってくれません。当然のことですが、足の痛みや、腰の痛みで患者さんが並んでいるところで、左手の小指の動きが変なのですといっても、「湿布しといてください」で終わりです。日本にもそういう特殊な目的の医師がいてくれるといいのですが。(いても高額を取られるかも。)
楽器は換えた方がよいか
私が回復への再挑戦を開始したのは、ギターを買い換えたのがきっかけです。ちょっと気分を変えたかったので、それまでのものより小振りのギターを購入しました。そのときわかったのは、弦長が回復に大きく影響するのではないかということでした。左手が少し楽になると、たとえばスラーのときに、左指を広げる力があまり必要なくなります。そうなると、たたく動きや、引っ掻く動きに集中し易くなります。
ネックはそれほど問題ではありません。弾きやすいにこしたことはありませんが、柔軟性に乏しい左手には正しい評価はできません。自分の経験で、回復が進むにつれて楽器を選ばなくなることに気づきました。指が弱いうちは、ネックがとても厚く感じられたのです。現在ではどのギターを手にとっても困難を感じることはなくなりました。
回復訓練(1)
ここから詳しく方法を述べたいと思います。くどいようですが、他の方に当てはまる方法かはわかりませんし、逆に症状を悪化させる可能性もあることを認識しておいて下さい。治療としてだけでなく、危険性はあるものの、健康な指の方にとっても、指ならし、柔軟性、敏捷性をもたせるトレーニングとして有効な方法であると信じます。
発想の原点は、フラメンコ奏者に早いスケールを見事に弾いてのける人が多いことにあります。色々な要因はあるでしょうが、私はラスゲアードによって手の甲の側の敏捷性が高められ、とりわけi(人差し指)で著しく鍛えられている点がクラシックとは違うと思うのです。これを左手にも応用できないか、というのが私の発想です。
まず、テーブルの上で右手を軽く握り、力を入れずにch,a,m,iとはじきだすラスゲアードを数回やってみてください。つぎに、同じ事を左手でやります。必ず力を抜いて下さい。そっと広げるくらいの気持ちでやります。はじめは1本ずつはじき出すことができないかもしれません。そのときは4,3,2,1がだんごになってもかまいません。これを1度に20回くらい、慣れてくれば50回くらいつづけてやります。健康な方ならこれだけでも指があたたかくなり、スラーが軽くなると思います。この練習を1日20回からはじめて1日に合計100回くらい、1週間ほど繰り返すとかなりやわらかくなってくるのがわかります。
ところで、無理をしているわけではないのに、痛みが出ることがあります。おそらく、眠っていた部分に負担がかかるせいだと思います。私はこれを何度となく経験し、今度は本当にこわれてしまったのかなと不安になったりしましたが、今日現在まで治らなかった痛みはありません。人によって痛みの原因はまちまちでしょうから、一概に大丈夫だとは言えないのですが、痛むから無理というわけではないようです。ときどき右手との感触の違いを確認しながらやって下さい。
大切なことがあります。左の場合なら、1,2,3,4の4本の中でどれか1本に異常が起きても、他の指が新たな4本のバランスを取ってしまうということです。次々にバランスが変化しますから、回復練習の間、あまりギターを集中して練習しない方がよいと思います。できればピアニシモくらいでそっと鳴らすのがよいと思います。これもそれだけで効果があって、普段いかに力まかせに弾いているかがわかります。
回復訓練(2)
慣れたらつぎの段階へ移ります。これはかなり無理がかかります。私にとってはこの練習が回復への大きな分岐点となりました。ラスゲアードを逆順、つまり1,2,3,4とやるのです。1本ずつ親指の先で支えて、流れるように軽く、連続的にはじきだします。3,4のときに無理がかからないように気をつけて下さい。私はなかなかできませんでした。2週間くらいかかったかもしれません。しかし、ギターを持ったときの変化は3日くらいで現れました。ついでに右手でもやってみるとよいでしょう(i,m,a,ch)。絶対に力を入れないでください。テレビを見ながらとか、通勤時間に気長にやりましょう。慣れてきたら、動きを大きくしたり、速度を速めたり、回数をふやします。これは(1)の訓練でも同じです。負担をかける訓練なのですから、一生懸命やっていはいけません。なんとなくやるくらいでちょうど良いのです。
回復訓練(3)
ここまでおやりになった方は、もう要領がつかめてきたことでしょう。あとは自分に合ったパターンを見つけることです。たとえば、2と4のスラーに違和感を感じていたとします。そのときは力を抜き、小さな動きで4-2,4-2,…のパターンで充分ほぐします。(これは、そっと4、2の順にはじき出すことを意味します。ここではゆっくり連続的に行います。3の力は抜き、2と4の動きにくっついて来ても気にしないことです。)
その後、ゆっくり4,2,2(up)の繰り返しをします。(2(up)は2の握る方向への動きです。)くれぐれも無理をしないように気をつけてください。さらさらと無意識にできるようにします。3も力を抜いておいてください。楽になったら全速力でやります。ゆっくりやるときは、思い切って遅くし、いくらか動きを大き目にして下さい。これが済んだら、2,4,4(up)で同じ事をやります。
これで終わりではありません。2,4が重いとき、1の存在を忘れてはいけません。どこかの指が不調の時、他の指の影響が必ずあると思って下さい。4,2,1と1,2,4のパターンを同様に練習します。これらの練習はいずれも長時間やってはいけません。無理がかかっているかどうかはご自分の判断だけが頼りです。うまくいくことを祈ります。力を抜き、小さな動きで軽くやるのがポイントです。はじめはもたもたと、変な動きでよいのです。1週間くらいやるととても軽くなるはずです。もう気がつかれたでしょうが、これは準備運動としても有効です。健康な方は、ギターを持つ前に少しこれらの練習をしてみてください。いきなりスラーを弾いても安定して鳴ることに驚かれると思います。あとは、3,2,1なり、2,3,4なり、ご自分のパターンでおやりください。
もうひとつ、大切なことを述べておきましょう。それは、手のひらを上にするか下にするかによって、効果が違うということです。もちろん、はじめは無理のない方向でやりましょう。腕を脱力してたらしたままでもよいでしょう。次第に、手のひらを上にしてもできるようにします。これはそれだけ負荷も大きくなりますから、油断しないで下さい。
最後に
最終回をどのようにまとめようかと考えているうちに、半年が過ぎてしまいました。これまでの応用としていろいろなアイデアが絶えず生まれたり消えたり、あるいは忘れてしまったりしています。そのうち、少なくとも私にとって確実に効果のある方法をひとつ加えておきたいと思います。それは上記の回復訓練の変形に過ぎませんが、私には大きな効果があります。それは、自分の苦手な、たとえば1,2,4や4,3,1のパターンを選び、「指の間隔を少しあけて」これまでと同様の練習を行うということです。慣れないと、とてもやりにくい訓練です。もちろん、無理をしてやるようなことではありません。1,3,4などを試みると指が壊れるのではないかという不安に襲われるかもしれません。これまで同様、力を抜き、指の動きたいようにやらせてやる気持ちで、そっと練習します。慣れてきたら、力を入れてはじき出したり、動きをごく軽くしてスピードをあげてみます。効果は曲を弾いてみるとすぐにわかると思います。
さて、最後に少しまとめのようなことをしてみたいと思います。今をときめく村治佳織さんの腕力は、どれほど強力でしょうか。大方の男性ギタリストよりはるかに弱いのではないでしょうか。では、あの自在な演奏力はどこから来るのか。たぶん、彼女の筋肉の瞬発力としなやかさによると思われます。ギターの世界では、これまであまりそういうことが意識されてこなかったように思います。とにかく、艱難辛苦なんとやらで、ひたすらがんばってテクニックをものにするという練習が主体ではなかったでしょうか。これがギターによる故障者を生んでいるように思えてなりません。スポーツの世界では、瞬発力をつけるための訓練と、持久力をつけるための訓練は違うと聞きます。私にはそのあたりの知識がありませんので、言及しないまま筆を置きますが、機会があれば勉強してギター演奏との接点を見いだせればと思っています。お読みいただいき、ありがとうございました。疑問やご意見がおありの方は、アウラあてにお送りいただければ幸いです。
追記
追記:その後も新しいアイデアを実践し、とうとう完治といってよい状態になりました。左手の小指がしっかりと指板に立ち、スラーが気持ちよく鳴ります。近いうちにその詳細をご報告したいと思っています。(2002.6.17)
追記2:と言いながら、半年が過ぎてしまいました。過激な練習方法もあるのですが、読者の方が誤ったやり方で練習し、かえって悪くしてしまう可能性も考えると発表できないものもあります。一部はギターを持たない練習のヒントとしてまとめましたので、ご覧いただければと思います。(2002.11.28)
追記3:書き終えてから早いもので4年以上が経ちました。最近、演奏技術の改善や故障からの回復を目指したアレキサンダー・テクニークなるものが知られるようになり、関連書籍もいろいろ目にするようになりました。とくに書籍紹介にもある「 ピアニストならだれでも知っておきたいからだのこと」は非常に参考になるすぐれた本だと思います。この本によって、私の考えた方法が概ね根拠のあるものだったことが確認できたように思います。指に問題を感じていらっしゃる方には強く推奨したいと思います。(2007.4.22)