ギターを手にした中学生は四六時中弾いていた。町のレコード屋さんで手に入れた『ギターの勘所』という教則本のようなものを飽きもせず繰り返していた。あまりに煩いので弟は外に出ることが多くなった。
そんなある日のこと、出入りのクリーニング屋さんが窓から声をかけてきた。
「あの実は私、練馬の大沢先生と言う方のギター教室に通っているんです。それでこの町にも私の店で教室を開こうと言うことになり、息子さんもいかがですか?」なにやら目星をつけての勧誘だったな、と今なら思うが早速兄は伴先生(当時は大沢一仁先生を周りはこう呼んでいた)の門下生となったのだ。
やはり専門家に習うと音楽も違ってくる。
「トラベルセットが当たる~もう一回弾いてよ」などとリクエストしてみたり、「コストの練習曲はいいね」と弟も生意気に理解してくる。
熱心に教室に通い、スペイン人ギタリストのコンサートに行き、家の中でギターの音楽が流れているのはひどく当たり前の日常だった。ただきっといい楽器がほしかったんだろうな、とは容易に想像できる。豊かな家庭でもなかったし、シナノギターが精一杯だったのだろう。
大学生になった兄は次にマンドリン・オーケストラに夢中になる。指揮・編曲に没頭し、家にはマンドリン、マンドラ、マンドセロ、クラブの楽器がゴロゴロし始める。大学生なんておおよそ家にはいないので、それらは弟のいい遊び道具になった。弟はマンドセロがお気に入りだった。
話は進む。就職、結婚、子ができる。ギターは手放さず続けていたのだろう。ある日ドラム缶に挟まれ指を骨折。ギターが弾けない日々が続く。そんな折、NHK「ギター教室」のゲスト、ホルヘ・アリサの演奏を見て「この人に習いたい!」と思うほど感銘を受けた。
ソルのギャロップを弾いたマエストロ曰く「こういう簡単な曲をきちんと弾く練習が大事だ」の一言に「習いたい」が「習う!」の決意に変わったそうだ。
1971年のことだった。
その後、どこで手に入れたかは知らないが、以後長い間相棒となるJ・ラミレス・AMマークを抱えての留学が実現する。
まぁ、常識的に考えて両家の親たち、会社の人たち、総反対だったろう。
「一体おまえは何を考えているんだ!」のシュプレヒコールをも、青年の熱意には跳ね返す力があるんだ、とのんびり生きていた弟も8年後真似をさせていただくこととなる・・・
第1話 わが家にギターとスペイン語がやって来た日 ← → 第三話 執筆中 お待ちください。