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アルベルト・ネジメ・オーノ「わが家にギターとスペイン語がやって来た日」

ふと、この道を歩いて来て40年以上の時間が流れてしまったことに驚く。兄(注1)(1946~2000)を始め自分、息子までギターに関わり、スペインに惹かれる道を歩いている。

 物事には原因がある?原因と呼べないまでも、記憶を辿ればきっかけは確かにあった。それは忘れもしない、わが家にギターとスペイン語がやって来た日のことだ。

 

 1959年(1952年生まれの自分は小学1年)トリオ・ロス・パンチョスが初来日をし、テレビ出演をした日だった。(当時は当然生中継だっただろう)丁度鹿児島から祖母が上京していて、山形で仕事をしていた叔父がギターとオープンテープレコーダーを携えやって来た。ラテン音楽が趣味の叔父はその中継が目当てだったのか、食い入るようにテレビにかじりついていた。音楽好きの兄もやはり、いや家族全員がロス・パンチョスのハーモニーに聴き入っていた。自分は言葉の美しさが印象的だった。

 番組が終わって祖母がぽつりと言った。

 「こん人たちはなんね?日本人ね?鹿児島弁で歌っておった」

それを大笑いしながら否定する家族に向かって・・・

 「あした(注2)、食わんど、こら損、とかゆうてたやないかぁ」

 自分にとっては鹿児島弁もスペイン語も同じように聞こえたので、ただただ可笑しくて仕方なかった。

 話は逸れるが、子供のころの兄は中学校の代表で独唱の舞台に立ったり、『歌のおばさん(注3)』がわざわざ訪ねて来たり、と地域では有名なボーイソプラノだった(らしいと言うのも、自分はまったくおぼえていない)。

ただ自分が中学校最初の音楽授業で、いきなり名前を呼ばれ「何か歌ってみなさい」と強要され、大変な被害を受けたことは(名字が珍しいことも含め)暗い記憶の一つだ。 

 そうそう、ギターのことを・・・

ロス・パンチョスの中継が終わり、叔父が『禁じられた遊び』をおもむろに弾き始めたのを覗き込んで見ていると

 「離れていないと危ないぞ」と叔父が言う。

そう、スチール弦だったのだ。

 ・・・ギターっていうのは危ない楽器なんだ、が第一印象。

 「もう1回、もう1回・・・」と兄。

 「弾いてみるか?」

渡された兄はすぐに叔父と同じように弾き始めてしまったのだ。  叔父の驚いた顔は忘れられない。

 「練習して、練習して、ようやく弾けるようになったんだ。もう俺はギターをやめる。明日鉄線じゃないギターを買ってやる」

 兄が喜んだことは言うまでもないが・・・自分はギターより、音を記録できる機械に興味津々だった。(つづく)

 

*注1 ギタリスト名小松清志 大沢一仁、ホルヘ・アリサ、サインス・デ・ラ・マサ、JL.ゴンサレス、新間英雄各氏に師事

*注2  Hasta cuando? いつまで? Corazón こころ など詩によく使われる言葉

*注3  NHKなどに番組を持っていたM.T.さん。兄は電話ボックスの中で歌ったそうだ。

→ 第2話 「兄、スペインへ行く」


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